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一ストローク一キック
原稿用紙:15枚
仕事が行き詰まったり、ご近所付き合いが上手くいかなかったり、恋わずらいをして想いが抑えきれなくなると、誰でも頭を使って、考えなくちゃならない。僕の場合は、水泳の記録(選手はたいてい『タイム』って呼んでる)が伸びなくなった時。高校二年生の夏だった。それまで通りのやり方じゃ駄目だから、物事が思い通りに進まなくなる。だから、新しいやり方を考案しなくちゃならない。ただ、それはひどく難しい。それまで、自分が想像もしなかったやり方を、創造するってことだからね。
初めて、僕は挫折して、そこから立ち直るために何かをしなくちゃならなかった。僕は分かったよ、大人たちが、子どもたちに、良い番組や、良い映画や、良い絵本を見たり、読むようにすすめる訳が分かったよ。創造ってものの尊さを、将来身にしみて感じることが、必ずあるからなんだ。誰もが、変わらなくちゃならない。あるいは、創造の能力を、使わなくちゃ、ならないんだ。あなたが小説家でもなく、俳優でないとしてもね。あなただって、いつかは、何かを創造しなくちゃならない。
十七歳の僕は、学校の水泳なら、どんな上級生にだって負けなかった。僕はスイミングスクールに通っていた。そこでは、僕は有象無象の一人でしかなかった。学内の水泳大会では毎年優勝していても、本場の選手大会じゃ、せいぜい、区大会どまりだったんだ。僕は、大海を知り抜いている、井の中の蛙だった。スイミングスクールには、そういう子供たちがたくさんいることを、僕は知っていた。
「間、今年もお前が一番じゃないか?」
その年のいちばん最初の水泳の授業があった時に、クラスの友達の、朝比奈隆が言った。彼は手を組んで、腕をバットに見立てると、水面を振り切って水しぶきをあげて、こっちに波を思い切りぶっかけてきた。
「正直に言って、あんまり嬉しくもないなあ…」僕は水中に潜って、あっという間に朝比奈の背後に回り込むと、彼を羽交い締めにして、そのまま水中に引きずり込み、たっぷり二十秒は沈めてやった。
授業が終わって、逆向きになった蛇口から出る、細かい水のシャワーで目を洗っていると、朝比奈が片足ではね飛び、こめかみのあたりを小突いて耳の中の水を出しながら、近づいてきた。
「なあ、平泳ぎの泳ぎ方、教えてくれへんか…」朝比奈は言った。
「ええよ…」
僕は、遠慮することなんかないのに、と思った。朝比奈は、僕よりずっと頭が良かった。偏差値だって、調子が悪い、と言うときでも、六十はある。僕に出来ることと言ったら、本当に水泳くらいで、それだって本当の一番じゃない。朝比奈はどこへ行っても通用する能力があるんだ。それなのに、泳ぐことになると、元気がなくなってしまう。
他にも、脚の早いやつ、絵の上手なやつ…つまり、人より飛びぬけて何かが出来るやつでも、泳げないと、特別なひけ目を感じるらしかった。これは頭が特別良くない僕でさえ、自然に気づくことができた。脚が遅かったり、絵が下手でも、そういうのは、あんまり困らないし、目立たないせいだろうか? 泳げない、ということには、特別なみっともなさがつきまとっているようだ。水の中で、必死にもがく姿を連想するのだろうか。そのことが僕自身に、あんまり、自慢に出来ないスポーツだな、と思わせた。意外だろうか? あんまり、特別すぎるから、得意に思ったり自慢したって、仕方がない気がしたんだ。
英語が話せれば、尊敬はされる。だけど、神戸で生まれて育った人間が、関西弁だけじゃなく、北海道弁も博多弁も話せます、と言ったところで、それは何かきちんとした理由があってしゃべれるのだから、大した技術でもない、というのに似ている。少なくとも、僕は自分が取り組んでいるもの、頑張っているものについて、ずっとそんな風に感じていたんだ。
「じゃあさ、『しあわせの村』に行かんか…」朝比奈はうつむき加減で言った。
「えっ…。ちょっと、遠くないか」僕らの学校からは、歩いていくと、片道一時間はかかる。北区にある、公共の福祉施設だ。ジムや屋内プール、グラウンドなんかもあって、僕らは学校のイベントでも小学生の頃からよく利用していた。
「日曜日。今度、親に頼んで車で送ってもらうからさ。うちの親、休みの日は、よくあそこの温泉に入りに行くから、ついでに乗せてもらう。な、次の日曜、空いてるか? 駅で待ち合わせしようぜ」
「ああ。それならいいよ」
そういう訳で、僕は次の日曜日にかるい気持ちで、しあわせの村の、屋内プールに出かけて行ったんだ。
とことん打ちのめされるような出来事に出遭うとも知らずに。
僕らは日曜の、朝九時に着いた。
券売機で入場券を買った。そのすぐ横の受付で、ジャージ姿のお兄さんに券を渡し、引き換えにロッカーの鍵付きのゴムバンド(無くさないよう、腕につけて泳ぐ)をもらい、靴をぬいで更衣室に入った。
着替えが終わると、僕は体操をした。大人になった今でも、泳ぐ前に僕は体操をする。朝比奈は、授業でもないのに、と冷やかしたけれど、素直に僕にならって、三分ほどきちんと体操をした。
プールには、まだ三、四人しか入っていなかった。僕は、まず朝比奈に、二十五メートル、泳がせてみることにした。彼が平泳ぎで十メートルほど進んでから、僕も泳ぎだして、朝比奈の泳ぎを観察しながら、ついていった。
「手足の動きが、バラバラになってるよ」泳ぎ終わった朝比奈が息を切らしているのを見ながら、僕は言った。
「手が、まだ水をかいている時に、脚が動いて、水を蹴ってるよ。手が一回しか動いていない時に、脚が二回動いている時もあった」
「つまり…?」
「手を一回かいたあとで、脚を一回蹴るんだよ。そうすると、手の先と足が伸びきって、体が真っ直ぐになる。それが、平泳ぎの正しいフォームだよ。フォームが崩れると、どうしても、スピードが乗らないから…。
「じゃあ、やって見せるから、うしろからついて来て、よく見てよ」
二十五メートル、僕は、ゆっくり泳いだ。朝比奈が追いつくのを待って、僕はゆっくりとした調子で言った。
「一ストローク、一キック」
「何…?」朝比奈は息をきらしながら、ゴーグルを押し上げて僕を見た。
「ひとかき、ひとけり。焦ることは、ないんだよ。まず、壁を蹴って、スタートするだろ。両手を伸ばして、一回かいて、足を一回蹴って、水面に浮かんでくる。それから水をかいて、顔を上げて浮かび上がるだろ。かき終わる時に、足を動かして水中を蹴る。すると、かき終わった手は前に伸ばして、蹴った足はそのまま伸びて、体は真っ直ぐになる。
「もう一度泳ぐから、今言ったことをさ、頭に入れて、僕の泳ぎを観察してみてよ」
僕はできるかぎり、ゆっくりと泳いだ。朝比奈は、頷いた。
「何となく分かった。…よし、やってみる」
「足は、体によく引きつけてから蹴ったほうが、前に進むで!」
朝比奈は右手の親指を立てて腕をつきだすと笑い、水の中に沈むとスタートした。
実際、彼のフォームは、その日のうちにかなり良くなった。一ストローク、一キックのあと、体が真っ直ぐになるって教えたから、そのことを意識しただけでも、かなりきれいな形になった。水の中でもがいているのとは、雲泥の差だった。
しばらくすると、朝比奈が気を遣って、言った。一人でちょっと練習をするから、好きに泳いどいてくれよ、と。僕は、あんまり気乗りがしなかった。その頃には、プールには、だいぶ人が入っていた。自分で好きなように泳ぐことには、慣れていなかった。僕はそれまで、自主特訓なんてしたことがなかった。スイミングスクールの練習についていくのがやっとだった。おまけに時々、泳ぐことに心底うんざりすることさえあった。
そんな時、一人のおじいさんに、自然に目がいった。
おじいさんは痩せていて、六十歳か七十歳には見えた。僕らがプールサイドに入って来た時、どこにでもある分針と秒針だけのタイマーの横で、念入りに十分間は体操をしていた人だった。
その人の泳ぎは、正直に言って、正しいフォームじゃなかった。ところが、僕が百メートル、二百メートル、時には四百メートル泳いでから、息をついでいる間にも、おじいさんは泳ぐのをやめないんだ。小学生の女の子がふざけてしまって、隣のコースから侵入して、進路をふさぐことがあっても、けっして足を底につけない。しあわせの村のプールは、一時間に一回、五分間の休憩がある。おじいさんは鐘が鳴って、休憩を知らせるアナウンスが響くまで泳ぎ続けていた。
その晩、僕は夢を見た。
たまたま、二、三日前から友達に借りて、ちばてつやの『あしたのジョー』を読んでいた。そのせいで、僕は、試合が終わって満足そうに微笑んでいるボクサーのジョーと、二人きりで話をしたんだ。
辺りは真っ暗で、ジョーはコーナーポストの前の、小さな椅子に腰かけていた。ジョーと、そのそばに立っている僕のところだけ、真っ白なスポットライトが真上からあたっていたんだ。ジョーは言った。「一ストローク、一キック」僕は言った。そんなこと、うんざりするくらいやってきたよ。ほんとうにもう、うんざりなんだ。
夢の中のジョーは言う。「まだ、真っ白に燃えつきちゃいねえ」有名なセリフだ。うつむいていたジョーが顔をあげる。とても、穏やかな目をしている。「『しあわせの村』にきていたおじいさんは、どこまで泳いだ? いったい、あんたは、どこまで泳いだ?」それから彼は、またうつむく。「一ストローク、一キック」忘れてはいけないルールのように、彼は言葉を繰り返した。
漠然とした夢から醒めると、僕はジョーの言ったことが分かった。夢っていうのは、きっとどんな夢でも同じなんだ。はっきりと目覚めている人にとってこそ、夢はとっても大事な意味を持つものなんだ。
夏休みが終わって、すぐに学校で水泳大会があった。
朝比奈と僕は、クラスで特に速いということで、二百メートル自由形の、リレー選手に選ばれた。八月中も、朝比奈は僕にコーチを頼んだんだ。どうして、彼がここまで熱心に泳ぎ続けたのか。朝比奈が飛び込み台に上がった時、クラスの副委員長だった前島由奈に向かって、しっかり右手を突き出し、親指を立てて見せたことから、きっと推察できるんじゃないかな。周りの冷やかしもなんのその。彼は二つも順位を上げて戻ってきたんだ。僕らのクラスは全員拍手と歓声を上げて、前島由奈は顔を真っ赤にしていた。白い肌が、足の先まで紅色に染まっていた。
アンカーは、僕だった。
優勝するには、あと二つ、順位をあげなきゃならなかった。
八月の間、好きな女の子にいいところを見せたいという朝比奈と、僕は猛特訓をした。
この話は、スイミングスクールの友達にもしていないし、今まで、誰にも話さなかった。クラスのみんなは、相変わらず、僕の泳ぎが速いのは当たり前だと思っていた。もし自主特訓のことを知ったら、スイミングスクールの友達やコーチの中には、朝比奈といっしょに『しあわせの村』に泳ぎに行ったって、大して速くはならないだろうし、もっと教室で泳いだ方が、よっぽど実力がつくと言ったかも知れない。
僕は、泳ぎ続けるおじいさんを見た時に分かったんだ。誰でも、自分のできることを、精一杯やらなけりゃならない。僕はずっと記録がのびなくて悩んでいた。一ストローク、一キック。夢の中のジョーが言ったことは正しい。僕は悩んでいたけれど、いったいどこまでがんばったって言うんだ? ひとつでも多く、一ストローク、一キックをやったって言うのか? スイミングスクールの練習に追いついているだけで、自分の頭を使って、精一杯、頑張ったことなんて、ひとつもなかった。
しあわせの村には、がんばっている人たちがいっぱいいた。だから僕は、朝比奈と一緒に練習に行ったんだ。その中の一人になりたくって。自分のおごった心を静めたくて。
練習で、四百メートルまでは、繰り返して何度も泳いでいたけれど、いったい、自分が何キロメートルまで泳げるのか、僕は分からなかった。挑戦したことがなかった。朝比奈はぶっとおしで四百メートル泳げるようになった。笑ってくれてもいいけれど、僕は五千五百メートルで足がつった。
しかも両脚の太ももを同時につって、僕は生まれて初めて、おぼれかけたんだ。
高校二年生の時の、学校の水泳大会。朝比奈が最後の十メートルを、ややフォームを崩しながらも、ついに泳ぎきって壁にタッチした瞬間、僕は飛び跳ねて着水した。周りがあんなに盛り上がっていたのに、水の中は、いつもと同じだった。静かで、聞こえるのは自分が作り出す水のざわめきと、自分の頭の中の声だけだった。
二十五メートルを泳ぎ切ってターンすると、僕の前を泳ぐ人はいなくなった。横に並んでいる人もいない。
だけど、僕は、もう分かっていた。自分が、何に追いつかなくちゃいけないのか。
朝比奈や、おじいさんのことを僕は一心に考えて、一生懸命に泳いだ。
壁にタッチして浮かび上がった途端、音の世界が押し寄せてきた。僕らは優勝したんだ。僕は、記録を伸ばすことができた。そのどちらよりも嬉しかったのは、自分が本当に頑張ったんだって、自分自身に胸を張れることだった。僕は、生まれて初めて自分の意志で、新しいことをやり遂げたんだ。
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