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真夜中を走る少年
原稿用紙:48枚
1
「こうなるって、いつかなるって分かってたんだ…。お母さん、お母さんは馬鹿だよ。人のことをまるっきり思いやれないのに、いつもその人のことを分かりきってるつもりでいてさ…。僕のこともお父さんのことも。大馬鹿だよ。どうして何も聞いてくれなかったの…。聞かないでも分かったの?」
六畳一間にタンス、衣装掛け、ベット、勉強机が置かれている。他には何一つ無い子供部屋だった。ごみ箱すらないのだ。
両親に買ってもらったのは本しかない。それもみんな母の化粧台の脇に置かれている。理由(母親の)は「汚すといけないから」だ。
八歳の大助はランドセルに自分の衣服を手早く詰め込んでいた。最後にベッドのスプリングを持ち上げて友達に借りている『ドラゴンボール』のコミック一巻と二巻を取り出した。借りてまだ二日しか経っていないが、もう何十回読み返したか分からない。
彼は二冊の単行本をていねいにしまいこむと、ランドセルを肩に背負い、勉強机のほうに近寄った。しゃがむと椅子をどけて、机の下にあるものを引きずり出した。
物置が力まかせに引き開けられた音を聞いたとき、大助は窓から庭を見下ろした。パジャマ姿の父親が体をつっこみ、次に中から金属バットを手にして家に向き直った。肩が怒っている。家の中で母が大笑いしている。彼女はまだテレビを見ているのだ。少年は怖気を震った。お母さん、あなたにはまだ分からないの?
「来るよ、お父さんが来るよ…」
大助は自分の部屋の一番奥でしゃがみ込み、壁に背中を押し当ると震え始めた。
母親が自分の会社を持ったのはおととしの秋だった。ウィンドゥズとインターネットの話題でパソコン業界がはじめて盛り上がっていた頃だ。母は三十万円もするデスクトップ機を購入して、面白半分でイラストをはじめ、面白半分で投稿し、賞金二万円という小さなコンクールに入賞してしまった。
ついでタイミングよく大手の電気会社に目を付けられた(だが大助は母親の絵が嫌いだ。何もかもが妙に細長く描かれていて、目つきはいつも何かを見下しているようだし、じっと見ていると食虫植物を連想してしまう)。それからはずっと昇り調子だった。家にいながらで仕事が出来ることを、彼女はたいそう誇らしく語ったものだ。
確かそのことをSOHOと言ってた──大助は、「家で仕事ができるのよ。ひょっとしたらお父さんよりも稼いだりして」と冗談を言っていた母親を見て父がひどく──苦しそうに笑っていたのを見ていた。大助は思わず彼女を振り返った──「通勤地獄なんて過去の異物になっちゃうかもね」──息子は胸が苦しくなった。お母さん! 分かってあげてよ!
父親が狂い出したのは、自分の妻に対する嫉妬などという生易しいものが原因ではなかった。彼は怒り狂っていたのだ。母はそれを察しようともしなかった。妻が何を言おうとも、いつも夫は黙って聞いていた。
大助にしてみれば手足を縛られた状態で、時限爆弾の残り時間を見つめているようなものだった。
母親は爆弾をしかけられていることも知らずにメリーゴーラウンドで遊び呆けている小さな女の子のように無邪気だった。大助は行動を起こさざるをえなかった。
「おまえ、そこにいろよ…」ついさっき母に向かって父がそう呟くと、ソファから立ち上がり、ベランドの窓を開けて庭に出ていった。それで大助は二階の自分の部屋へ、一目散に逃げたのだ。とうとうその時がきた。しかし母は「何?
偉そうに」──テレビに向き直った。
母親の言葉を大助は聞き逃したが──多分いつも通りに何気なく──とうとう父親の忍耐の、最後の一片をふみにじったのだ。
今、大助は箱にすがりついていた。母親は、息子が隠し事をする訳がないと思っている。そう信じきっているのだと思う。だが大助は、それが親子の間の信頼だとか、常識ではないことを知っている。母は無関心の一言に過ぎるのだ。
少年の目が必死にすがりついているそれは、不思議にも自分でガタゴト揺れている大きさ〈大〉の段ボールの箱だ。箱自体は近所のコンビニの駐車場に転がっているのを拾ってきた(万引きしているような気持ちで全速力で家に持ちかえった)。そのふたは、セロテープで閉めているだけ。内側からの揺れがあまりにも激しいので中のものが今にも飛び出してしまいそうだ。
箱の中からは声がしている。鳥のさえずるような声がすると思えば、猿の断末魔の悲鳴としか思われぬ声が聞こえたりもする。大助は片手に握った工作用の、柄が緑のカッターナイフから刃を押し出した。父が階段を上がりきったからだ。あと二、三歩で部屋のノブが回り、最悪の状態になった狂人が飛び出してくるのだ。大助は腰を上げて箱を自分に寄せた。
2
狂ったような、力強い血の奔流が頭を揺らし、息を切らしている。一橋京助は子供部屋の扉を開けた。
息子が段ボールの箱を、自分の膝前に置いていた。ふたを閉めているのはセロテープだ。テープの中央にちっぽけなカッターナイフの刃を押しつけて、小さく震えながらこちらをにらんでいる。
何だか人質をとったつもりのように見えるな、と父親の京助は思った。
「おい。なんのつもりだ?」
京助はバットを振るとドアの脇の壁に穴を開けた。穴は明かりのスイッチの上に開き、赤い線が中心に入っている白い配線が衝撃で飛び出してむき出しになった。
息子は心がくだけちってしまいそうになった──バットの先に血がたっぷり付いていたのだ。勢いよく振り回されたバットから血が飛んできて、大助の目に入った。彼は死に物狂いになって首を振り、顔から血をぬぐった。
「なんのつもりだ?」大助が嗚咽しているあいだにも父は怒鳴り、床を乱打した。
「僕には分かってたよ、お父さん」息子は熱にうなされているように深く息を吸っている。
バットが振られ、大声とともにまた穴が開く。大助は両手を顔を覆って、母のものであろう血の雨を防いだ。
「言え! なんのつもりだ?」
「お父さんの気持ちは、僕には分かってたよ。おんなじ気持ちだよ!」
「お前に分かってもらったからといってそれが何になる?」
「もし僕を殺そうとするなら…」大助はカッターを握り直すと、セロテープの線の中央にしっかり押し当てた。泣きつづけているせいで眼や頭が痛かった。
「当たり前だろ?」父は片手でこめかみにクルクル輪を作って「お前パーか?」
「じゃあ、じゃあ…さようなら!」
大助がナイフの刃を縦にすっと引くと、箱の中で起こっていた奇妙なざわめきが消えた。
「なんのつもりだ?」人殺しが前に出てくる。
大助は段ボールを小脇に担いだ。
勢いよく後ろに戻し、せせら笑う殺人鬼めがけて前に振った。
いくつかの影が宙に躍った。
ツバメ、猫、ネズミ、胸から上しかない老人、その死体が父親に襲いかかった。
鳥は翼が折れていた。飛べずにゆっくり死んだのだろう…学校の校庭で見付けた。
体育倉庫と屋外プールのあいだには、小さな子供しか入れないような隙間がある。いつものように探検ごっこで、もぐりこんでいったときに見つけた。
彼は夜中に侵入して、ペンライトで照らし、軍手をはめた手でつかみ取るとスーパーの買い物袋に入れて持ちかえった。 身体の外に垂れ下がっている、両方の目玉が、獲物を求めて海草のように揺れている。京助の顎に鳥の鉤爪は、根っこを食い込ませたようにしっかりつかまって放さない。体を前後させてキツツキのように父の頬の肉をついばみ始めている。くちばしを引っ込める度に宙に血の花がポッ・ポッと咲いた
。
猫は車に轢かれて溝のなかで死んでいたのを、やはり買い物袋に入れて持ちかえった。
身体の真ん中から下がぺちゃんこで、目玉が飛び出ている。フーフーと唸ると冷たいのか熱いのか、白い息が激しく出入りする。牙と爪とは死んで皮膚が乾燥したせいで生前より鋭く突き立っている。万力のように彼の肩にしがみついていると庭の雑草を引き抜いた時に、根っこがちぎれるような音をいく筋も立てて彼の肩はもげた。猫は這い上がり、今度は首筋に食いついていく。京助は両手で猫を押し退けようとする。小さな口が親指をちぎる。
ネズミも死のハイウェイで拾ってきた。頭以外、形が分からなくなっていたので復活するのか不安だったが、見事よみがえった。殺人鬼の首に当たってパジャマの中に落ち込むと、中で生肉にありつけた悦びの奇声を上げ、胴体を咬みちぎって肉に自分を沈めていく。やがて背中を食い破ると、また別の穴を掘って中へもぐりこむ。
父は見る間に自分の血でずぶ濡れになった。激しく喘いでいる。溺れているみたいだ。
大助には全て分かっていた。いつか父親はキレて、母親を殺すのだと。父が母を見る眼で分かっていた。そして何故か父はその眼で息子をも見た。
母を見る眼よりも、もっと考え深げに。あけっぴろげではなくて何かを隠した瞳で――それは真夜中の三日月にも似て、ひそやかに、歪んでいるのだ。
どうする? 大助は必死に考えた。父は狂ってきている。僕のお父さんはおかしくなっている。
いつかお母さんを殺すんだと分かっている。
もちろん僕の番もやってくる。
大助は助けを求めた。だが気が狂っている人間のことを話にするだけで、人は眉をひそめ、彼を非難した──「自分のお父さんをそんな風に言うやつがあるか?」これは学校の先生の言い方だ。普段の様子とはうって変わり真っ赤になると、大助の頭をガツンとぶちもした。先生は自分の意見を言うだけだった。子供の話なんか聞いてはくれない。元々、子供の話が重要だと考えてはいない。先生は、子供のために先生になったんじゃない、自分のしたいことをしているだけなんだ、と大助は悟った。
「あんたの方こそどうかしてるんじゃないの?」これはクラスの女の子。たとえばの話なんだ、自分のお父さんがおかしくなったとするでしょ。自分にはそれが分かってるんだ。だけど大人は気付かない。子供にしか分からないことなんだ。言いたいこと分かるでしょ?
それでお父さんが自分を殺そうとしていることも分かったら。ねえ、君ならどうする?
大助はなるべく冗談めかして聞いたのだが、見事に失敗した(彼は女の子に相談などしてはいけないのだと思った)。以来クラスの女の子たちは彼を毛虫のように避けている。一度など、相手の背中に立って話しかけたら涙目で突き飛ばされてしまった。
誰も助けてくれないのだ。八歳の子供だから、それ以上助けを求めても無駄だと理解するだけの教養があった。気が狂っている人間を、説明するのは不可能なのだ。その事実もすんなり受け止められた。これが大人なら、自滅するまであきらめず手を尽くしたことだろう。
UFOや怪物の話をしている訳ではないのに、必死になるほど先生や友達は怒りだす。じゃあ無駄なんだ。自分で何とかするしかない。そうではないか?
でなければ殺されてしまう。大助には分かっていた、殺されるのは他の誰でもない、〈自分〉なのだと。
あの瞳がどんなに深いのかなんて誰も耳を貸してはくれない。
父親に何度目かに悪意をもって見つめられたその夜、大助は家を飛び出して、死体を探しに出かけたのだ。
〈誰も〉力にはならない。
よし、それなら死体にすがることにしよう。生きている人は、みんなあてにならないのだから。
〈みなさん、歩いている死体を見かけたら頭をやっつけて下さい〉 テレビのニュースでは死体の復活を報道していた。これこそ好機というものではないか。
3
父の視線に気付いて以来、彼は毎晩、登下校の道である国道の脇の歩道を歩いた。以前はしょっちゅうネズミが死んでいるのを目にしていた。あるいは猫や、カエルだ。最近では、死体が甦るというので毎朝自治会の人が数人の徒党を組んで死骸を回収して回っている。朝も七時を過ぎると死のハイウェイですら何も無くなってしまうのだった。
大助は仕方なく、ぶん殴られてごみ袋に入れられてしまう前の死体を探して夜をさまよい歩いた。人間の墓場にも行ってみたが、ビルを建てるときの様に工事用の高いフェンスが巡らされていて、中を見ることも出来なかった。
終点はガソリンスタンドの脇の暗がりに、捨てられている白木のベンチだった。そこに腰を下ろして少年は動物が死ぬのを待っていた。自分から彼らを追いやることは出来なかった。闇を眺めていると自分の境遇が、心に鏡のように浮かび上がり、泣けてきた。
人が来るのが分かり、彼は歩き出すとそのままやり過ごそうとした。
「待ちなさい」
老人は身をかわそうとする大助に向き直ろうとした。
「おい…こんな夜中にどこへ行くんだ?」
大助は逃げようとした。だが老人は恐ろしく脚が達者だった。大助が思いきり走り出すと、軽く追いついて来た。年寄りは、わっはっは、と笑っていた。この人もおかしいのかと、はじめは背中がぞくぞくしたが、いくら走っても向こうの手はこちらに伸びてこない。捕まえようとしない。大助は老人を見た。年寄りは両腕を振って気持ちよさそうに走っている。運動好きらしく、良く見れば派手な、真っ赤なジャージを着ている。彼はゆうゆうとウィンクまで送ってきた。いきなり少年は馬鹿らしくなった。
立ち止まった自分を先入観なしに、何でもなさそうに見ている大人の顔を見ていたら、不思議と彼は泣けてきた。
「何かあったのか?」
あえて老人は走ってくれたのだとそれが分かった。
後ろ足がすり減って胸を反ったような、忘れられたベンチに彼らは戻って座った。涙ながらの言葉にならない説明を聞くと、とりあえず老人はガソリンスタンドの向かいにあるラーメン屋に、大助を引っぱり込んだ。
「わしがあんたにおごってやるのはな、あんたが心配だからだぞ。いったい何があったのか知らんが、まずしゃっきとなさい!」
わざとらしいしかめつらで、老人は言った。
「でも、もう…」
「誰が君をそんなにまで追い詰めたのかね! いや言わなくてもいいんだ。ただ、こんな夜中に子供を放っておく親も親だ。わしはどうもくやしい。まったく何て顔をしてるんだ!
いいかね、わしはあんたをな、元気づけてやりたいんだよ!」
老人は怒鳴った。が、それは苦笑まじりにだった。
「じいさん、ほどほどにな!」
熊のように大柄な店の主人が湯気の向こうから吠えた。
老人は分かっているという風にカウンターの方へ片手を振り、ラーメンのどんぶりの縁をつかんで黙っている大助を、まじまじと見つめた。
(この子ときたら、まるでどんぶりにしがみついているようだ!)
年寄りはフィットネスジムからの帰りだった。しわくちゃの顔で、上下とも赤いジャージ姿の彼は、昔話に出てくる鬼にも見える。年寄りはテーブルの上に腕組みをしたまま、前ににじり寄って少しずつ語りかけた。
「なあ君。世の中はつまらんもの、下らないもの、まあ確かにそんなもんで一杯かも知れないよな…。だがめそめそしたり、自分を軽く考えちゃ駄目だよ。うっかり下らない出来事に手を出しちゃならんよ。人間、どんなときだって自分の仕事をやると決まっている。子供だってそうさ。仕事っていうのはそれだけやっていれば、決して間違いのないことさ。たとえばこの店のおじさんだが…」
背の高い太った男は丸い大きな肩をあらわに、頭に白いタオルを巻いて、奥で洗い物をしている。忙しそうに立ち回っているが、一つ一つの動作が決していい加減ではない。何かに従っているような、何かを信頼して働いているような、大助はそんな気持ちがした。見ていると、自分とは別世界の風景のようだった。不思議と、うらやましかった。その人を指をさして老人は言った。
「あのお人好しのおっさんにはな。ロクデナシの兄貴がおって、そいつが競馬・パチンコでこしらえた借金をことごとく背負わされてしまったんだ。しかも彼奴は逐電しおってからに…。だが、あのおっさんは働く。他にすることを思いつけないってこともあるがな。かく言う、このわしでさえも」年寄りは長い指で胸の辺りを小突き、「肺ガンなんだ。ええと…。もう半年だったかなあ、六蔵!」
ガラガラの野太い声が応えた、「七ヶ月だろう、じいさん。自分の残りぐらい覚えときなよ!」
年寄りは痩せた肩をすくめた。 「やれやれ。だがわしはジムで鍛え続けている。ま、そういうことなんだよ。みんな悩みがあるのだ。みんな辛いし、大人になると、みんな命は無いものなのさ。いや。そう考えて用心することが本当なんだってことを、わしは言いたかったのさ。誰の命だってよ、とっても大切なものなんだからなあ。それに…」彼は視線を泳がせた。
手を伸ばすと隣の椅子の上に置きっぱなしになっていた雑誌をとった。年寄りは表紙を一読すると頁をめくり大助に向かって広げた。
「これはな。学校の先生なら絶対に見せないとは思うが、今の君にはきっと必要だと思うねえ。いや、是非とも知っておくべきだよ…」
画面を横切っている大きなゴシック体の見出しはにはこうあった。
《死体にも性欲が? ゾンビが少女を強姦!》
記事の表面を行ったり来たりする老人の指の動きに合わせて、大助は言われるままに目を凝らしていた。そうやって相手の言われるままになっていたのは、何かの冗談だ、という気持ちがあったのだろう。
記事の小見出しにはこうあった。
〈死者は犯罪者と同じ、見境がないだけ生きている者よりも質が悪い!〉
本文には五歳の女の子が死体の三人に強姦された経緯が述べられていた。 死体は十代の少年のもので、夜中にオートバイの事故で死んだのだ。翌朝、幼稚園児が遠足で潮干狩りにやってきた。運悪く、その海岸は事故の現場近くだった。死体たちは、はぐれた幼児をさらったのだとあり、その先を読み出したところで大助はすさまじい吐き気が持ち上がり、胸がつまった。彼は空気を無理矢理に飲み込まなければならなかった。さもなければもどしていた。
『三つの死体のうち、実際に強姦に及んだのは二体だけだった。ではもう一体はどうしたのか?
彼は肉体の損傷が激しく、仲間に喰われたのだ。被害者の少女(五歳)は死体が喰い散らかされていく様をじっくり目に焼き付けながら犯されたのだ(恐らく口臭は最悪だったろう!)ちなみに彼女は耳たぶを食べられてしまった(口づけされたのだ!)。その点をのぞけば、保護された時の彼女は、いたって健康であった』
大助は自分の目の前が真っ暗になり、背中がガチガチに固まるのを覚えた。
両手が震えだし、こんな記事がこの世の中にあるということに気が遠くなるほど絶望した。泥まみれの冷たい手が自分の頬に押し当てられているような、薄気味悪い思いで一杯になった。トイレにかけこんで吐いてしまいたい!
年寄りは大助をじっと見ていた。
不思議だった。彼に見守られていることに気付くと吐き気が静まっていった。
「分かったかい? まったく!」老人はがっくりと椅子の背に身体を押しつけて言った。
「最近じゃ死体まで生き返っている! 最後の審判とやらが近づいているのかも知れない!
だが…世間の人は珍しい事じゃないと思ってる。信じられないかい? いいかね…これこそ恐ろしいことだよ!
それこそが本当なのだ! 強姦なんて、戦争中はよくあったことだ、で済ませてしまうのだよ。人の意識というものは、生まれながらにして恐怖に慣れっこなのさ。こういう話がある、ソビエトの人なんか昔から何事に対しても備える意識が出来ていてね、いざ災厄が起こっても、わざわざスーパーへ買い出しに行く必要なんてないのだとさ。いつでも備えはできているから、無駄買いしてネズミに食われるようなミスを犯さないのだと!
「それと同じことさ。人間の意識は常にガードされている。精神と聞くと何だかあやふやなものとしか思われないが、それは人間がよく理解していないものだからそう思えるだけで、実際の精神なんてものは石みたいなものだ。恐怖は水だ。なかなか、しみこまない。
「だからさ、こうした出来事は報道されなければならない、忘れてはならないことなのに、いざ発表されると何でもないことだ、という意識のレベルにしまいこまれてしまう。人間、自分の頭に実際に一発食らうまでは、一度ガチガチの精神を粉々に吹き飛ばされるまでは、悪意を感じることもできないのかも知れん。
「いつだって本当に恐ろしいことは、既にそれを知っている人にしか分からない。な、こんな言葉を知ってるかい──〈爆心地の話をしてくれる人はいない〉──原爆について書かれた本に載っていたんだが−−生 きている人間は、真実を知ることは出来ないんだ。だから堂々巡りを繰り返してしまう。人間は愚かだ。人の気持ちを分かってあげられないということを、知らないのだから。
「もっともなあ、こんな記事は嘘かも知れない。週刊誌こそゾンビと同じなのさ。何かにありつくことしか出来ない能なしなんだ。腐ることしか知らないオタンコナスなんだ。
「いいかね、これから坊主は長い人生を送るだろうが、誰も本当のことを教えてはくれないと断言できるよ。本当のことっていうのは、自分で見つけるものさ。そしてもし、誰も教えてくれないから、誰も気にしていないからといって、何でも無視して過ごしていたら、ある日とんでもない目に遭うのだ。なぜならわしらは自分で決定しなければならない生き物だからだよ。誰だって自分で何かを決めなければならない。決めないで放っておくと…」
大助は激しく首を振って老人を驚かせた。少年は嗚咽していた。 「どうして…なんで生きていられるの?
なんで? 僕は出来ないよ、そんなに堂々と…。なんで、こんな事があるのに、おじいさんはそんなにも堂々としていられるの…。無理だよ…出来ないよ…」
自分が情けなく思えて、大助は鼻水を垂らし泣き出した。
年寄りは驚いていたが、少年の言ったことをよく考えてみると、また口を開いた。
「じゃあ、そのラーメンをすすってみなさい!」
吐き気を落ちつかせてから、そうした。うまいかい、と老人はきいた。大助が頷くと、また彼はかぶりを振って言った。
「そうだ! それはうまい。ラーメンがうまいから、ラーメン好きの奴はそれが食い続けたくて死ねない。それだけのことさ。家族のいる人は家族のために。恋人のいる人は、その人を守りたくて死ねない、当然のことだ。仕事に命をかける奴はそれが完成するまで死ねない。わしはただ死にたくないから死にたくない。…ま、そういうことだ、それだけのことだ」
豪気な声を上げて(表情はやや気弱に)老人は笑った。
身体に響く、大きな愉快な笑い声だった。生まれてから一度もそんな笑いを聞いたことが無い、という少年にしてみれば、それはみじめな発見だった。大助は自分を恥ずかしく感じた。
彼は厨房の奥に視線を泳がせた。主人は流しの前に立ち、手首で汗を拭いている。
僕は何にも知らないんだ。
大助は安心した。
自分がまだ世の中を知らないのにすっかり絶望していたのが恥ずかしかった。家の中にあったのは、いつも怒りの声だけ…そんなみじめなものだけだった。でも他にも何かがあるのだ。自分は、いつもそれを願っていたのではないだろうか?
自分のお母さんが間違っていたことも知った――(そうだ、やっぱりそうだったんだ、と確信した)。人を脅かすような大きな声、口調には〈口答えなんかしたらひっぱたくよ!〉が会話の上に、空気の響きの上に乗っていた。それは結局、力の強い人が勝つんだよ、と言われているようで恐ろしく、いつも彼は震えるしかなかった。それは間違っていた。
話を聞いてくれなかった友達や先生も間違っていた。友達や先生になる人は、彼らしかいないのだと思い込まされていたのだ。自分で選ぶことも、決めることも出来るとは!
このおじいさんの方が、僕にとってはすごく大事だ! (世の中には、こうやって話し合うことで初めて分かることがあるんだ)それは一方的な意見の争いとは違って、二度とは手に入れられない、一つ一つの瞬間ごとにある。
もちろん大助は全てを説明することはできなかったが、この年寄りと話が出来たことがどんなに貴重な一瞬なのかは分かっていた。
(この人は強いんだ)大助は自分が広がっていくような気持ちになって、それがとても嬉しかった。
老人はため息を付いて言った。 「そしてな。坊主…。世の中がどんなにつまらなくなっても、死体が甦るような狂った世界になっても、それが何かね?
踏ん張ってみることだよ! それだけでわしらは友達になれるんだよ。なあ。負けないで頑張ってる、ただそれだけのことで、どんな奴も立派な人間であり仲間なんだ!
小さな女の子を乱暴するような奴は、死人でなくてもこの世には星の数ほどいるだろう。だがまともな奴らも星の数ほどいるんだ。そういう奴等は、互いに自分たちのことは分かるもんさ。わしとお前さんだってもう友達になっているはずだ。わしは是非、君と友達になりたいね!
きっと坊主は頑張れるさ。若いんだから。だから世の中にすねてみて、みじめな下らないまねに身を落として、あっけなく死んじまうようなことにはなってもらいたくない。だからわしは、お前さんに声をかけた。
「坊主、もう、夜中に一人で歩くんじゃないよ! こうやってラーメンを食わせてるのも、みんなお前さんにちゃんと生きててもらいたいからやってるんだぜ!」
大助はいよいよ激しく泣きだした。恥ずかしくはなかった。泣いていると自分がおぼれて死ぬような、変な気がしたからだ。だったら、こんな物知らずな自分は殺しちまえ。大助は盛大に泣いた。
「塩ラーメンになっちゃうぜ」いつの間にかラーメン屋の主人がカウンターにもたれて、こっちを見て笑っていた。彼は真面目な顔になると厳しく言った。
「じいさん、悪い癖だよ。子供にそんな難しいことを言ってどうするんだね?」
年寄りは答えなかった。
「それで、君」老人はのんびりと語りかけた。
「もし良かったら話してみてくれんか…。わしらはちゃんと聞いてやるから…」
* * *
「そんなにヤバイのかい、親父さん」
大助の話が終わると店の主人は言った。「そんなに追い詰められてるのか」
「もうギリギリなんです。でもどうしたらいいのか分かんない。僕が集めたのは、ツバメと猫とネズミ…そんなのだけなんだ。でもそんなの脅しにもならない──本当に、大変なことになったら」
「死体ってのは共食いはしないのかね?」年寄りが聞いた。
「ニュースでやってたんだけど。死体はよっぽど飢えない限り、お互いを食べることはしないんだって。逆に死体もおなかが一杯だったら、何も食べないんだって」
「じゃあ坊主は、鳥や猫には普通の飯を食わせてるんだな? そうやってもたせてる訳なんだな?」
「はじめに鳥を見つけたときはね、そうやって捕まえたんだ」大助は頷いた。
「どう思うね六蔵」老人は、テーブルに肩肘を立てて宙をにらんでいた。「民事の問題には、当局はまるっきり不介入っちゅうのに、わしは前々から疑問を持ってる。あらかじめ防げたような刑事事件はときどきあるだろう、ああいうのは民事事件が事前に起きていて、そいつが引き金になってるとわしは思う。と言って、わしらがこの子の家を見張るわけにもいかんしな、いや、見張るべきか…しかし…」
「俺は、坊主のやり方でいいと思う。親父さんが本当にキレちまったら、咄嗟に坊主を守ってやれるのはそいつらしかいないだろう。ちっぽけな動物なら〈脅し〉には充分だ。それに大の大人ならそんなもんにやられやしねえよ…」言葉を切ると大男はニッと笑った。「でもよ、そういうことを考えられる坊主はすごく偉いと俺は思うぜ。だから、坊主のその賢さがあれば、きっと上手くいくと思うし、誰か他の人間を巻き込むようなことには…まずならない…だろう?
じいさんはどう思う?」
「他人は当てにならん。そこに気付いた坊主は偉い。その若さでな」老人は考え込んだ。「そうだな…ちょっと表へ出なさい。六蔵は来んでいい。すぐ戻るから」
「なんだよ」
老人は手を振って答えなかった。立ち上がると、彼は一度振り返って少年にウィンクした。彼自身、何でもなさそうにしたのだが、大助はもう彼のことがとても好きになっていた。だから〈わしらだけの秘密だよ〉、と告げたその瞬きはとてもかっこいいと思った。いつかあんな風なウィンクをする大人になりたいと本気で考えた。他のことはどうでもいいからと。だから、それからの出来事のことを大助は一生忘れない。
* * *
老人は道路のそばまで歩き、大助の肩に手を置いた。「あいつあ…」と店の方を顎でしゃくり、
「わしがあと七ヶ月といったが、嘘なんだよ? わしが嘘を教えたのさ…」年寄りはそわそわし出した。大型トラックが一台、二人の脇を通過した。それを見送ると彼は国道に背中を向け、大助の肩に両手を置いて、少年を自分の正面に向かわせた。
「わしはもう今月で終わり、あいつの店がつぶれるのが先か、わしが先かっていつも冗談を言ってたもんだが、わしは嘘をついてた。わしはもう長くはない。いいや、たった今倒れてもおかしくはないのさ。本当さ。まったく、本当だよ…」
大助の目をじっと見、 「不思議かい? 今、わしの言ってることの方が嘘かも知れないと、お前さんは思ってる。だが本当なんだ。わしはこれでもかなり弱ってる。ぼろぼろなんだよ。しわしわなのさ。
「あとのことは」とまた顎をしゃくり、「あいつがやってくれるはずだ」
そして死のハイウェイに横っ飛びに飛び込んだ。
老人は向かってくる物にばんざいをし、少し飛び上がった。
鉄の塊があっという間に彼を引きさらい、絶叫する大助の口の中にガソリンと血の味がする風が容赦なく吹き込んだ。
ダンプはしばらく止まらずに走って行ったが、急ブレーキをかけて停車した。指示器を出し、のろのろと歩道側に寄せると非常点滅灯を点けて停車した。大助は走り出した。
ドアが開き、ドライバーが外に飛び降りた。大助は立ち止まった。運転手は暗がりから大助の方を見ている。お互い顔は見えなかったが、自分たちが互いに見つめ合っていることは知っていた。いきなりダンプに大急ぎで走り寄ると車体に足を引っかけて乗り込み、ドライバーは元のスピードでダンプを走らせ、彼方に消えていった。
「人間じゃないよ…」
大助は呟き、ついで叫びだした。
「あいつ人間じゃないよ! あいつ、人間じゃないよ!」 うしろによろめき、ラーメン屋の主人の膝が受けとめた。見上げると息を切らした男の目はまん丸に見開かれている。二人は路上に引き裂かれ横たわっているものに近寄っていった。
「何てこった、じいさん…」大男の口が大きく開いた。
* * *
「さあ、持って行くんだ」 男は不透明の青いごみ袋に老人の切断された半身を突っ込み、今、それを大助に手渡そうとしていた。両手にはめている塩化ビニールの手袋の間にはちぎれれかかっている下半身を引き離そうとして、腸に指を突っ込んだ時の脂が付いてねばついていた。男は手首の下の方で額の汗を拭いた。
大助は腰がくだけて道に座り込んだ。男がどんどん目の前に突きつけてくるそれを見て、ぼうぜんとして首を振った。
「行くんだ! 行くんだ坊主!」
男は路上に残っている物を指さした。砕かれた臓物の山から片腕が生えて突っ立ち手首が何かをこまねくように、かろうじて表に突き出ているのが見えた。大助は目をつぶった。
「あれを見ろよ! じいさんはつまらん思いをして死んだんじゃねえ! お前が子供でもよ、そんなことぐらい分かるだろ!」
大助は手を出して男の握っている下の部分を握り、袋を持った。持ってみて、重たくてとても運べなかったら返せばいい。そう考えていた。
だがそれは軽かった。軽いと分かると、何だか運べそうな気がしてきた。
心が言った。
(そんなに重要な事じゃないさ。
(軽いんだろ?
(…だったらたいしたものじゃないさ…)
それは母親の思考だった。〈口答えなんかしたらひっぱたくよ!〉だ。
(──死んだ人間のことなんか何なのよ!)
(考えなければそれですむの? お母さん。確かに、この袋は軽いさ)
でも軽いからってなめんなよ…。
それは、今まで聞いたことのなかった自分の思考だ。
大助は奮い立った。人が死んだのだ、そしてその人はこうなることを本心から望んだのだ。これは大事なことだ。
もう、誰にも分かってもらえなくても構うもんか。
(この死体を僕は持っていく。僕は、決めた)
おじいさんは自分でこうなることを望んだんだ。反対なんか出来るもんか。それに目の前の男は一緒になって責任を負おうとしている。悲惨な手段だからといって、彼らは結果がもたらすものを恐れてはいなかった。彼らは目的をちゃんとわきまえていた。
「これでいいんだね?」大助は尋ねた。「本当にこれでいいんだね?」
微笑まじりに大男は言った。「いいとも、さあ行くんだ。きっと生きてくれよ。じいさんが言ってたように、ちゃんと生きるんだ…」
4
(誰も心配してくれないよ、君。君が何にもしないのならね)
大助の中で老人の声がよみがえった。それは今なお、彼を生かすために語りかけてくる声だった。──大助がちゃんと生きのびる限りは。彼が自分の〈仕事〉を果たしている限りは。
(世の中がどんなにつまらなかろうが、わしらは友達になれるんだよ。負けないで頑張ってる、ただそれだけのことで、どんな奴も立派な人間であり、仲間なんだ)
父は…息子の信頼と予測とをはるかに裏切って、母を殺した最低の男は今、小動物の死体を振りほどき、大助を殺そうと、ゾンビどもに食いつかれてもそばから離さなかったバットを振りかぶって向かってくる。大助はふと思った。お父さんは(そして、ああ、お母さんもそうだったんだね、と思った)、まるで自分の持っている武器にすがりついているようだね。いつもそうしていたんだね。
体内に潜り込んだネズミがうっかり顔を突き出すと、京助はありったけの力を込めてその小さな首を握りしめ、ねじるとちぎり取って捨てた。彼は本気で怒っていた。うなり声を発するぐらい気合いを込めないと、呼吸が出来なくなっている。
老人は分かっていたのだろうか? たとえば年の功で、男は一度女性から受けた傷を、決して忘れない醜い習性があるとか。それで父の脅威を正確に推し量ることが出来て、未来を確実に予測し出来たのだろうか。それとも良い死に場所を発見した、と思ったのだろうか。自殺志望だったのか。
だが大助の心の中に生きる老人は、相変わらずこう言ってのけ、全ての疑問を解消してしまう。
(わしは、やりたいからやったのだ、坊主は気にせず前に進め)――それはあまりにも分かり切った返事なので大助は悩む。あまりにも答えが簡単すぎる。身勝手な想像ではないか、と疑わしくなる。だが今は、彼はこの出来事を最後まで押し進めなければならない。それだけは絶対に確かなことだ。
そう、もし小動物の死体しかなかったなら、少年の手助けにはならなかったろう。
あくまで、こんなちっぽけな死体は脅しでしかない。父の視線を感じたとき、自分の不安をおさめるための材料でしかなかった。本当なら気の狂っているとはいえ、むざむざこんなものたちにかじられるような父親ではない。怒りで動転しているのと、身に巣食って離れようとしない、恐怖のせいだ。
名前を尋ねることも出来なかった老人の死体は今、横たわったきり動かないでいると見せかけていた。いざ大助を目指して進んできた父が手の届くところに来ると眼を見開き、憎らしいくらい見事に、獲物の両足の間に片腕を突っ込んで彼を床に倒し、毒クモみたく背中に這い上がる。
老人の死体は胸から上しかない。下半身と左腕がダンプの六連タイヤにもぎとられて──水分を失ったギザギザの傷口が外側にめくれ、紫色に変わっている──左の顔半分がつぶれている──が、それでもれっきとした人間の死体だ。
母とは違う。父とは違う。先生とは違う。どうでもいいような、男の子や女の子なんかではないのだ。たとえその人が死んでいても。
「なんのつもりだ!」
父はまだ叫んでいる――アキレス腱を食べられながら。首筋をかじられながら。頭に穴を掘られながら。
「なんのつもりだ! 父親を殺すつもりか! なんのつもりだ! 大助! なんのつもりだあ! …答えやがれえ…!」泣き声があとを引いた。
「さようなら」
大助は父を飛び越えてドア口に立つと、あとを振り返った。
ニュースでやっていたことがもう一つある。誰でも知っているが、誰もが聞き流してしまうような、それでいて重要極まりないことがもう一つある。
〈死体は弱っている者を先に狙います。逆に言えば、健康な者ほど狙われにくいのです。みなさん、健康には十分注意なさってください。こんな世の中だからこそ…〉
今また振りほどかれた小動物のゾンビが父に群がり始めた。大の大人がいやだ、いやだと泣きわめきはじめている。ちぎれたネズミの首は泳ぐように床を進み、父の目の中に潜り込んでいく。死体どもは共食いはしないだろう。生き生きしたものを食いつくしてしまうまでは。こんな状態になっても少年の大助よりも、ひとでなしは元気に床を転げ回っているのだから。まだどうにかなると信じている。
「ありがとう」大助は頭を下げた。
再び顔を上げると老人の死体が口を大きく開き、父の喉笛に食らいつこうとしている──その瞬間に、彼の目がこちらをちらっと見たような気がした。自分を認めたような気がした。そんなはずはないのだが。
年寄りの死体は胃袋が無いから、永遠に飢えている。
大助はノブを回して、叫び声で充満している部屋を出、ドアをそっと引くとぴったり閉じた。
一階では、頭を叩きつぶされた母が血の海にうっぷしていた。
5
家を出て、やがて国道の歩道を大助は走っていた。向かいからサイレンを鳴らしたパトカーが二台現れて、あっという間に彼を追い抜いていった。また彼は真夜中を走っているのだ。が、気持ちよく微笑みながら並んで走ってくれる人はもういない。
だが生き残った大助は微笑んでいた。時々、あんまりおかしくなって声が漏れた。彼は少しの間、目を閉じて走ってみた。あの年寄りの気配を感じとろうとした。すると別の気配を感じた。どこかに別の人だけれどたった今、この深夜にも彼のように走っている人がいるのだ。それが信じられそうだった。
ブルッと震えがきて、少年は目を開いた。
きっと世の中には頑張って生きている人が他にもいるのだと大助は信じた。
たとえ世界が闇に閉ざされたような気分になり、光なんかが見付けることができなくなっても。歩く死体が今よりもっと、世の中にあふれかえったとしても。
老人は言った。
「夜中に一人で歩くんじゃないよ!」
僕はみんなと走れるんだ──。大助は嬉し泣きした。
やがてラーメン屋が見えてきた。赤いネオンライトが目印だ。
あの主人は助けになってくれるだろうか? ──たとえばこんなことも考えられるではないか──あの人の借金だらけというロクデナシの兄貴が金をせびりにきていて、金を奪われ、殺されてしまっているとも限らない。扉を開けたら、
(胸に包丁の刺さっているゾンビが手を伸ばして僕を追いかけ回すんだ──)
先のことなど分からないが、大助は彼に会ったら開口一番にこう言うつもりだった。
「僕はやれることをやったんだよ…」
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