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神戸日記
 プライベートのことは書きません。ちょっとした覚え書きです。

短編小説
 SF、ファンタジー、ホラー、現代小説。

 ┣ まさるとひかるの魔法のゾウ
 ┣ 悪魔の原稿
 ┣ 悪魔の右腕
 ┣ 悪魔の結婚
 ┣ 不思議な人がいるものだ
 ┣ 勇者アルシオンの冒険
 ┣ 君も知らない魔法使い
 ┣ 人魚姫の夢
 ┣ 真夜中を走る少年
 ┣ ホッチキスをかまえた男
 ┣ 一ストローク一キック
 ┗ 勇士ヒンレックの冒険

ご感想、お待ちしております。
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プロフィール
 神戸に住んでいる男性です。映画と図書館と甲本ヒロトさんの歌が大好きです。






ジブリ



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まさるとひかるの魔法のゾウ

原稿用紙:30枚

     1

 田中さんという名前の人はたくさんいますが、町の大通りにある小さなお店にやってきた田中さんは、その田中さんが初めてでした。お名前は田中一男さんといいます。一男さんは入り口の前に立って、お店をしばらくながめていました。背広すがたで、背中をちょっと丸くして、仕事用の鞄を脇にはさんでいます。一男さんは、奥さんを連れずにこんなお店に入るのは、はじめてでした。ある場所を訪れるということは、自分がどういう人間なのかを示すことになるのかも知れません。一男さんは、この場所にやってきた自分自身に首を傾げていました
 そのお店は、こんな風に見えました。藁を手で編んで作ったカゴや、鮮やかな赤と緑の糸で作った膝掛け、ビーズで作った小さなアクセサリー…そんな手作りの小物を置いてある、アンティークのお店に見えたのです。
 見えた、というのも、何のお店なのか、一男さんには、はっきりとは分からなかったのです。
 たいてい、大通りの、アーケードの下にあるお店というものは、入り口が開け放してあって、誰でも入りやすく、また、何を売っているのかが、すぐに分かるものだからです。
 ところが、このお店は扉を閉めていました。見かけは小さな一軒家でした。一男さんは小さなウサギのぬいぐるみが扉のすぐ近くの窓ぎわに置かれているのを見つけて、おしゃれな小物を置いている、童話にでも出てくるようなお店を想像したのです。
 子供の頃に母親に読んでもらった『ヘンゼルとグレーテル』の絵本が、一男さんの心によみがえってきました。魔法使いのおばあさんが住んでいる、お菓子の家です。小綺麗で、色とりどりで面白いのですが、それは見かけだけのことなのです。
 地下室ではカマドが燃えさかり、魔女が太った子供を食べるために、大きな包丁をせっせと磨いているのです。
 それでも、一男さんは白塗りの扉を開けて、お店の中に入っていきます。ドアにつけられていた小さな鈴が鳴りました。何かをはっと思い出して、振り返ってしまうような、澄んだ、小さな音色がひびいていたのです。
 鈴の音を聞くと、一男さんは誰かに自分の耳元でだいじなことをささやかれたような、不思議な気持ちになりました。そのメッセージは確かに頭の中に響いたのですが、思い出すことのできない夢のように、もう心にぼんやりと残っているだけです。それはまるで、いつまでもぐずぐずしていると、色あせてしまい、輝きを失い、すっかり乾いてしまうから、とでもいうように。心によみがえったものは、あっという間にどこかへ向けて、去ってしまったのです。
 入り口の扉が一男さんの後ろでゆっくりと音もなく閉まりました。アーケードのざわめきが消えました。

「いらっしゃいませ」
 店の奥から声がしました。入り口の、ドアの角にぶら下がっている鈴が響かせた音色のように、あかるくて、やさしい声でした。きれいな白髪の女の人が、レジの中で古いミシンを足でふんで、動かしていました。茶色の布をぬっています。
 レジの正面には、子どもが欲しがるような、小銭で買えるお菓子がたくさん入った紙の箱といっしょに、動物のぬいぐるみが一列に並んでいました。レジ・キャスターのまわりには、作りかけのサルのぬいぐるみと、それぞれ色の違う糸車が十個ほど、それに綿の入ったビニールの袋がたてかけてあります。
 部屋の左右の壁には両側とも、横幅の広い、大きな絵がかかっていました。絵の下には細長いテーブルがあり、いろんなぬいぐるみが、田中さんを小さなボタンで出来た、つぶらな瞳で見上げてきます。ここではない世界の王子と王女が子供たちの想像の世界で活躍するのを、足を投げ出して壁に背中をくっつけ、ちょこんと座って待っています。。ライオンと鷲が合体した生き物がいます。生き物の他にも、煙突のある家だとか、顔のある太陽と月があります。ドラゴンの棲む森や谷を描いた鍋敷きが、壁に付いたフックにぶらさげてあります。
 一男さんは目をレジの中にいる女の人に向けました。
(その気になれば、この人はこの世にあるどんなものもぬいぐるみにして、作りなおすことができるんだなあ)と一男さんは感心しました。ぬいぐるみには、ひとつひとつに、色紙と色糸で作った長方形の値札がついています。
 田中さんは一歩踏み出して、壁にかけられた大きな絵に近づきました(反対側の絵は、まったく覚えていません)。それは、アフリカのサバンナの絵でした。
 ほとんどが空の絵です。絵の下の、わずかな部分に地平線が広がって、彼方にキリンや、シマウマ、ゾウの群れが、かすんで見えています。額縁の真下には小さなプレートが貼られ、小さな字でこう書かれていました。

〈アフリカは、大空の土地である〉

 机の上のワニのぬいぐるみに手を伸ばし、その首にぶら下がっていた値札を自分に向けると、一男さんの肩からふっと力がぬけました。思っていたよりも、ずっと安い値段だったからです。ゴリラのぬいぐるみを手にとって、何気なくその手を握ってみました。
 ミシンをふむ音が止まり、女の人が、一男さんに声をかけました。
「何かお探しですか?」
 女の人は、針金のように細いフレームの眼鏡を外して、膝の上に置くと、親指と人さし指で目元をゆっくりとマッサージしました。
「ええ。友達に聞いたんですが…」
 田中さんは、レジに向かってゆっくり歩きました。
「子供にとても…なんというか…」田中さんは革のカバンを右手から左手にもちかえ、せきをひとつしました。「ここには、子供がとても喜ぶぬいぐるみがあると聞いて、やって来たんです」
 彼女は微笑みました。田中さんが言いにくいことを口にして、苦しそうな顔をしていたからです。
 どんなに偉い人でも、畑違いの分野に足を踏み入れると、西も東も分からなくなってしまいます。面白いことに、誰にでも畑違いというものは存在するのです。彼女はそのことを笑ったりはしません。ただ一男さんの緊張をといてあげるために微笑んだのです。
「まるで、魔法のようなぬいぐるみ…。不思議なぬいぐるみが買えるお店…」少し間を置いて、彼女は微笑みながら言いました。「そんな風に聞いたのではないですか?」
 田中一男さんはため息をつき、うなずきました。
「そうなんです。それも、おもちゃについている宣伝のための文句なんかじゃなくて。本当の魔法だと。そいつは、言うんですがね」一男さんは頭をかきました。「いやあ、ずいぶんと真剣に説得されてしまって…」
 女の人は、相変わらず微笑みながら一男さんを見ていました。
「本当なんですかね、ここには魔法があるって?」
 どうでしょう、というように、彼女は肩をすくめました。一男さんは話しました。
「そいつは…私と同じ会社の人間なんですがね。とっても、優秀な人間なんですよ。魔法だの、不思議だのと、あやふやなことを言うような人間じゃなかった…。そいつが最近は、ここのぬいぐるみの話ばかりするんです。やつは、家族のじまんばかりするんですよ。どうしてそんな風になってしまったのか、まったく不思議なんだ…。
「定期入れの中に、二枚も三枚も奥さんと子供の写真を入れているような、軟弱な男じゃなかったんです。もっと、やつは勝ち続けられるはずだった…。誰よりも、うまく立ち回れるはずだった…」
 一男さんはいつの間にか、とぎれることなく口を動かしていました。視線はななめ上を向いています。この店の主は、眼鏡をかけなおして、レジの中から出てきました。
 彼女は壁に立てかけてあった折りたたみの木の椅子を広げて床に置き、田中さんに座るよう、すすめました。彼女は自分の椅子を持ってきました。二人は向かい合って、話しはじめました。
「あなたのお子さんのお話をしてください。そのために、ここに来たのでしょうから」
「そうそう、そのためにきたんですよ。
「子どもたちは、まさると、ひかるといいます。ふたごで、とってもかわいいんですよ。
「幼稚園に入ったばかりなんですが、先生たちを困らせているんです。他の子供がつくったブロックのおもちゃや、砂のお城を壊して、泣かせてしまう。先週は、ワニのクッションを振り回して、女の子に体当たりをしたと聞きました。それで、その女の子は床で顔を打って鼻血が出たそうです。休みの日にね、私は幼稚園に呼び出されて、その子の親御さんにずいぶんとなじられましたよ…。
「それから、ふたりは窓から飛び降りる真似をしたり、はさみで手首を切るような真似をする…。それが本当にフリだけなのか、そうじゃないのか、私にも妻にも分からないんです…。今週の月曜日には、拾ったライターで妻が育てていたアロエの植木鉢を燃やしてしまった!
「どんなに叱っても、いっこうに態度が変わらないんです。二人とも!」
「たいへんな、わんぱくなのですね」眼鏡の奥で、彼女の目が光りました。
 一男さんは、力いっぱいうなずきました。
「そう。そうですよ! うちの子は、わんぱくなんです。元気がありあまっている。病気しらずで、大きな声でよくしゃべる。それはともかく、親としては不安なんですよ。あんまり、元気が良すぎますから。それで、話のはじめに言った…かつて優秀だった男に相談したわけです。あいつの家庭も、かつては危ない時期があったもんですから。かつてはね。今は、すっかり変わってしまったが。まあ、変わってしまったから、それがどうにも不思議でね、相談をしたわけなんです。
『きっとうまくいく』
 あいつは、しつこくすすめましてね。
『きっと』
 そればかり言うんです。『きっと、きっとうまくいく』ってね」
「もしかすると、奥様も働かれているのではありませんか?」彼女がどうしてそんな風に思ったのか、あとで考えてみても一男さんには分かりませんでした。。ごく自然な口調で、彼女は言っていました。
「ええ…。そうです。近所のスーパーで、レジ係をやっています。それだって、朝の十時から、昼の三時までですよ! つまりその…」
「あなたの子供たちに足りないものが何なのか。本当は、分かってらっしゃいますね?」
 一男さんは手を組んで、うなだれてしまいました。組んだ手を、上下に振りました。
「分かっている…。だけど、わたしたちには時間がない! どうすればいいというんです?」
 彼女は椅子から立ち上がり、壁に掛けられた絵の下にあるぬいぐるみを見渡しました。
「それは、表現することです。ちゃんと、表現することです。
「心の中で、どんなに想っていても…それは、透明なもの、にすぎません。そうではありませんか?」
 一男さんに語りかけてくる声は、優しい音でしたが、彼の心にふかく入り込みました。そこで根付き、心を引き裂いてしまいました。人は、もっとも単純な誤りに気が付いたとき、自分をいちばん恥ずかしく思うものです。ねえ、ちょっと、服の襟に値札がついたままですよ、と知らない人に肩をたたかれたら、誰だって赤面してしまうものではないでしょうか。彼女には、それが分かっていました。一男さんが、簡単なことを見落としているということを。それは、この店にやってくる、ほとんどの人が気が付かないものであることも、この美しい白髪の持ち主は知っていました。彼女は、人々にそのことを伝えることをわずらわしく思ったりはしません。何度、同じことを繰り返そうとも。それは、自分の仕事ですし、自分が知っているからといって、誰かの上に立つ理由などにはならないからです。一男さんの心を引き裂いたものは、ひとつぶの種から芽吹こうとしている花のようでした。それは、彼女の言葉によって、ますます彼の心をひきさき、根をはり、新しい花を咲かせて、より豊かな土壌をつくろうとしているようでした
「心の中にあるものは、他の人にとっては目に見えず、聞こえもしないものです。もちろん、さわることもできません。悲しいことですが、味わうことのできないものは、はじめから、まったくないのも同じなのです。
「私は、こういう仕事をしていますでしょ?」
 彼女は、自分の正面にある、〈アフリカは、大空の土地である〉というタイトルの絵と、その下の机の上にのっている人形たちを順番に指さしました。彼女が動いていくと、きれいな白髪も揺れて動きました(一男さんは、どんなに時間が経とうとも、本当の美しさはかわらないんじゃないか、とぼんやりと思いました。そのかたちが滅んでしまっても、本当の美しさはいつも感じることができるのではないか、と)。
「アイデアがいくらあっても、それはまだぬいぐるみではありません。時間がいくらあっても、計画がなければ何も始まりません。愛したい気持ちがあるのなら、それを形にしなければなりません。
「同じ人間の心の中にあるものなのに、多くの人は見えないばかりか、見ようともしません。気にかけることもありません。反対に、それは小さな憎しみや、悲しみ、怒りを、他の人には隠しておけるという利点がありますけれど。わたしには、人間は心の中にあるいろんなものを、自分がのぞんでいるかたちにするために、生まれてきたように思えるんです。味わったり、聞いてもらったり、読んでもらったりするための、かたちにするために」
 彼女は、ぬいぐるみをひとつ手にとって、レジの中へ引き返しました。
「どうぞ、こちらにいらしてください!」
 一男さんは、息を吸って、椅子から立ち上がりました。
 レジの引き出しから、鮮やかな色をしたものが出てきました。金のテープと、銀のテープで作ったバラ、お菓子のイラストがたくさんプリントされている包装紙。
 彼女は、テーブルの下に積んである紙の箱をひとつ取り上げ、一男さんの子供たちに(まさるくんと、ひかるくんのために)選んだぬいぐるみを入れ、ふたを閉じると金のコインにそっくりのシールで封をしました。
「さあ」と、彼女は同じ形の箱をもうひとつ取り出し、一男さんに持たせました。
「わたしが折り方を教えますから、子供たちのために、あなたの手で、ラッピングをしてみて下さい。まず、空箱で練習をしましょう」
 一男さんは自分の唇の片方が持ち上がるのを感じました。今までの自分の筋肉や神経が、〈本気だろうか?〉と反応したのですが、新しくうまれつつある一男さんの筋肉と神経は、それを押しとどめました。次の瞬間には、強い調子でうなずいていました。自分の椅子を持ってきて、レジの正面に陣取りました。
「まず、箱を紙の真ん中あたりに置きます…」彼女は静かに言いました。
 一男さんは真剣に耳を傾けながら思っていました。
(もし、僕がここで笑ってしまったら…何もかも、はじめからないのと同じになってしまう。この人は、そう言いたいんだ。そうだ…僕は確かに子供のことを心配はしているが、子供たちのために、本当に何かをしてやったことがあるだろうか…。本当に、何か意味のあることを、僕自身が…)
 包装紙を三枚、反故にしました。
 やがて、一男さんはぬいぐるみの入った箱を慎重に包み上げると、金のコインにそっくりのシールで封をしました。リボンをかけて、銀のバラを、てっぺんにコインのシールでくっつけると、子供たちのためのプレゼントができました。
 一男さんは、自分の手がこんなことのために使えるとは、思いもよりませんでした。

 レジが鳴りました。
 小銭を渡したあと、一男さんのしあげた、プレゼントが入った小さな紙袋を差し出しながら、「きっと喜ばれますよ」と彼女は言いました。彼女が自分の持ち上げた手を胸の前で小さく振ると、また美しい白髪がそっと揺れました。
 小さな鈴の音が鳴りました。彼女の言葉のように、優しくて心に深く響く音でした。
 
 アーケードのざわめきの中に戻ったあと、一男さんは不思議な気持ちになっていることに気が付き、振り向いてもう一度お店を見ました。
 この中に一人で入るなんて、とても普通ではないような気持ちがしていたのです。ところが、今そこから出てきてみると、ここだけが、自分の人生でただひとつの、まともな場所のように思えてきたのです。


     2

 子どもの時に感じていた楽しい気持ちは、大人になってから感じるどんな楽しい気持ちとひきかえにしても惜しくない。そんな風に思うことがあるとすれば、その思い出は、お金では買えないものだと自分で感じているせいかもしれません。子どもたちはどんな時でも遊ぶことができます。お金がなくても、楽しむことができます。子どもたちは大きく目を開いて、大きな声で笑いながら、遊ぶのです。本当に楽しい気持ちになるのに、たくさんの宝石や、名誉や地位が必要だったでしょうか。子どもの時に感じていたもっとも楽しい遊びに、何が必要だったでしょうか。子どもたちは…

     *   *   *

 …目を大きく開けて耳をすますと、すべてに心がおどりました。
 田中一男さんは、自分の、ふたごの子供たちを見ていました。
 まさるとひかるは、同じところにいました。鼻から、思い切り空気を吸い込んでいます。太陽と泥と、強烈な生き物の匂いをふたりはあじわっています。匂いはとても暖かくて、鼻を通って胸をふくらまし、いっときそこでとどまっているあいだ、二人は何かに全身を愛されていることを知りました。それはあまりにも大きくて、すばらしいものでした。もし二人が〈偉大な〉という言葉を知っていたら、ためらわずに口に出して、それを讃えていたことでしょう。
 それは、二人がこれまで出会ったことのない、大昔からある自然でした。

(これ、きっと夢だね)と、まさるが言いました。
(すっごい夢だ!)と、ひかるが言って、二人はおたがいをつかんで飛び跳ねました。興奮すると、二人は決まって、こんな風にはしゃぐのでした。
(僕たちは、ゾウなんだよ!)まさるが言いました。
(それも、とってもかわいい子ゾウだ!)ひかるが言いました。
 二人の言葉は、〈ここ〉では、二人にしか聞こえないことも、まさるとひかるは知っていました。なぜ知っていたのかは分かりません。夢を見ている時、それを夢と分からずに笑ったり、泣いたりすることがあります。反対に、これは夢なんだとぜんぶ承知していて、それでも笑ったり、泣くことがあります。これは、知っている、みんな分かっている夢でした。ほんの少し離れているところで、お父さんがぼんやり立って、見守っていることも、ふたりは知っていました。
 これは、ゾウの夢なのです。そしてまさるとひかるは、きっと日本ではなくて、遠いところにある大きな国・アフリカにいるのです!

 そのゾウは、二歳になったばかりでした。まだお母さんのミルクを飲んでいます(このことも、二人は夢だからよく知っています)。
 まさるは、その子ゾウの右目から、ひかるは左目から、今いる世界を眺めていました。まるで潜水艦の中から深海に棲む未知の生物を眺めるように、二人は子ゾウの心の中から、あたたかくて大きな世界を見ていたのです。
 そこは、あまりにも大きな空におしつぶされたような土地でした。空は果てしなく地平線の両端に長くのび、目線のずっと下の方にあります。空の、なんと高いことでしょう! 二人はこれから一生、大きくて立派な建物に出会うたび、このアフリカの空の高さのことを思い出すことでしょう。そしてこの空のことを、どんな時も懐かしく思い出すに違いありません。もしかしたら、将来、二人は本物の探検家になって、アフリカにやってくるかも知れません。いつもこの空の下で、何か偉大なものを探すようになるのかも知れません。
 何もかもが暖かい世界でした。太陽の日差しはあつく、信じられないほど高いところからはるばると、自分たちの所まで、力強く射し込んできています。空がこんなにも果てしなく見えるものだとは。ただそれだけのことなのに、二人はとても嬉しくなって、胸がしめつけられました。
 子ゾウの両足は泥の中にあります。まるで布団のようにあったかくて、気持ちの良い泥です。
 突然、その泥がシャワーのように降りかかってきました。乾きかけていた皮膚に、あたたかい泥は、なんと気持ちがよかったことでしょう!
 子ゾウのそばには、お母さんのゾウがいました。子ゾウが自分の体に降りかかった泥を、鼻でのばしているあいだ、お母さんのゾウは、湖の水際の泥を鼻で跳ね飛ばします。そしてまた、あったかい泥がかかってきます。子ゾウはうれしくて、耳や鼻をピクピク動かします。
 縁取りにしわのある、まぶたの奥の小さい瞳が、子ゾウを優しく見つめてきました。ゾウのお母さんのまなざしです。
 まさるとひかるは、なぜか、自分たちのお母さんが、たまらなくいとおしくなりました。
 すると、子ゾウが鼻をのばして、お母さんの鼻に巻き付けようとしました。お母さんは、自分の鼻を使って、子ゾウの泥を広げてやります。

 まさるとひかるは、ゾウの家族の中にいました。その数は、ざっと、百頭! 二人はだいたいそんなものだろうと思いましたが、その数は、ほとんどあたっていました。
 ゾウたちは、とても仲良く暮らしていました。まさるとひかるが今、見ている夢の中の子ゾウは、優しい家族のゾウたちと一緒に、大きな湖のそばで暮らしているのです。
 遠くに、キリンの群が見えることがありました。
 まさるとひかるは、子ゾウの気持ちが分かることにふと、気が付きました。そういえば、二人はさっきから子ゾウの気持ちをずっと分かっていたのです。泥がどんなに気持ちのいいものか。それに、お母さんが大好きなことも。
 今、子ゾウは、キリンの群を怖がっていました。すると、まさるとひかるも、同じ気持ちになったのです。ただ、二人は本当にこわがっていたわけではありません。子ゾウのことがかわいくて、本当に大好きだったのです。そのいとしく思っている気持ちが子ゾウの心により近づいていたというだけなのです。
(この子、こわがってるよ)まさるが、静かに言いました。
(キリンなんて、こわくないのにね)ひかるも、声をひそめて言いました。それでも、二人とも子ゾウが実際に怖がっていることがよく分かっていましたし、どうしてあげたらよいだろうと、深く心配していました。
(こわくなんかないよ)まさるが、背伸びをして、自分の頭の上の方にむかって言います。
(そうだよ。だけど、どうしても、キリンがこわいならさ…)ひかるも言います。(そんなもの、見なければいいじゃないか!
(僕たちに、もっと空を見せてよ! もっと泥をかぶって、あったかくしてよ!
(お母さんに甘えているところを見せてよ! そうしたらきっと、こわくなんてなくなるよ。ほかのことを、もっとたくさんしてみせてよ! おもしろいこと、たのしいことを、もっともっとしてみせてよ! そうしたら、君、きっと、しあわせになれるよ!)まさるは子ゾウを抱きしめてあげたいと思いました。
 けれども、今、二人は夢を見ているだけなのです。きっと二人は子ゾウの中の、夢のようなもので、自分たちには本当の体というものがないのです。だから、まさるとひかるの声は子ゾウには聞こえません。
 子ゾウは、湖のほとりに立ちつくして、まだ遠くのキリンの群れを見ていました。
 すると子ゾウの胸の中で、何か暖かいものが元気良く、まるでカワウソの兄弟がからみあってふざけあうように、まざりあって回転しました。子ゾウは勇気を出してキリンから目を引きはがすと、大きな樹の下で休んでいるお母さんのところまで、ちょっと急ぎ足で歩いていきました。
 子ゾウは、もう怖がっていません。まさるとひかるは、それがとても嬉しくてなりませんでした。

   3

 田中一男さんは、目を覚ましました。
 体が揺れています。帰りの電車の中でした。席に座りながら、いつの間にか居眠りをしていたようです。自分が今、どこにいるのか分からなくて、目をしばたき、自分の膝の上にのっている小さな紙袋を見つめました。これは、アーケードのお店で買ったゾウのぬいぐるみが入っている、こどもたちのためのプレゼントです。自分がラッピングをしたのです。記憶がよみがえってきました。
 乗客は、若い男の子が一人、一男さんのななめ向かい側に座って、熱心に文庫本を読んでいるだけでした。
 向かい側の窓にうつっている夜の風景を眺めながら、自分は、どうしてあんなきれいな夢を見たんだろう、と一男さんは不思議に思いました。あの夢は、自分の体験や、知識がまざりあって生じた夢だとは、とても思えないような夢でした。まさるとひかるがどんな風に子ゾウを思いやったか、そのためにどんなことをやってのけたのか。そのことを思うと一男さんは目頭が熱くなりました。
(あれは、ただの夢だったのかな。まさるのことも、ひかるのことも…)
 一男さんの新しい筋肉と神経が、すぐに反応しました。
(それはちがうな…。あれが、素敵な夢だったと、自分でそう思うなら…そうなるように努力するべきなんだ。心から信じることの出来る夢があるのなら、ちゃんとした、かたちになるように…)
 一男さんは、窓の外の闇の中に、さっきまで見ていた夢のつづきを思い浮かべました。子供たちの未来のことを。そうするだけで、自分が幸せな気持ちに包まれることが分かりました。自分が何を望んでいるのかを知ることができて、自分がそのために何かをすることができることを知って、胸がいっぱいになりました。
 一男さんは、終点まで、また夢を見ることにしました。彼の向かい側に座っている男の子は、誰かが静かに息を吐く音を耳にして、読んでいた本から少し顔をあげました。
 どこにでもいるような、真面目そうなサラリーマンが、かわいらしい紙袋を大事に抱え、満足した顔で居眠りをしています。ああ、と男の子は合点がいき、こっそり頬をゆるめました。きっと、家族へのプレゼントなんだ。
 大人になったら、とその子はちらっと思いました。家族を大切にできたら、きっと幸せだろうな、と。


お疲れさまでした。
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