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勇士ヒンレックの冒険
「鏡の表」 原稿用紙:22枚
1
スメーグは泣き叫んでいた。
ドラゴンはテーブルを蹴り飛ばし、ベッドを持ち上げて投げつけた。ヒンレックは剣を持っていない左手でそれらを優しく受け止め、そっと床におろした。子供が投げつけるお手玉をつかまえておもちゃ箱に戻しているような動作だった。魔法の靴を履いているエイデルがつむじ風を起こして鏡の出入り口だったところに現れた。若き語り部はオグラマール姫を抱えていた。彼は恭しく腰をかがめ、勇士のうしろへ下がった。そこには立派な魔法使いの格好をした女性もいた。ヒンレックは、姫を二人に任せておけば安心だった。
ヒンレックはすっかり石になった愛しい人を横目で見たが、どこにも欠けたところがないのを確かめると深く息をついた。
外の光が内側に流れ込み、せまくるしい虚飾の風景からあふれ出した。最後に部屋の形をしていたものは粉々になって四方に飛び散った。元は暖炉だったところにやせ細った骸骨の山があった。さらわれてきた女性たちの哀れな結末だった。ヒンレックがその光景に眼を細めているのに気がつくと、スメーグは死者の山を背中にかばって吠えた。
〈誰にも渡しはしないぞ。彼女たちはわたしのものだ〉スメーグは白い手を前に伸ばした。〈返せ! オグラマールはわたしのものだ〉
勇士ヒンレックは辺りを眺めた。そこは大昔、立派な都市だったヴォドガバイの残骸だった。あちこちに立っている樹木に似た建造物は石にされた人たちでこしらえた、嘆きのシンボルだった。両手を組み合わせて助けを願う人々、両腕を振り回して逃げ出した人々、スメーグの手にとらえられ、身をよじって抗議した人々、それらの人々の像が無理矢理固められてそこかしこに隣接していた。
ヒンレックとエイデル、それに魔法使いのミルペは、この荒れ地の真ん中に立っている鏡の前に来るまで、死の柱からこぼれたかけらを踏まずには進むことができなかった。
ヴォドガバイは石化した森と言われていた。地面に散らばっているのは人間の破片だった。頭上には黒雲が低く漂い、風すら吹かなかった。自分たちの重みでガレキの崩れる音の他には何も聞こえなかった。
ミルペはかつて勇士だったスメーグにあこがれていた魔法使いだった。彼女はスメーグのヴォドガバイまでの道中を水晶玉でのぞいていた。そうして、ミルペはドラゴンになったスメーグの凶行を知り、この不幸を人々に知らせようとした。スメーグはそれに気付いて彼女を襲ったが、 ミルペを守る魔法の力は強く、肉体を傷つけることは出来ても命を奪うことはどうしても出来なかった。彼はミルペに呪いをかけ、彼女の記憶を奪って、姿も小さな女の子にしてしまった。
それから千年もの間、彼女はボロをひきずってあてもなく歩いた。
エイデルが旅の途中でミルペを見つけた時、彼女はごみ箱の中にいた。一体どうしてそんな所にはまったのか、彼女は覚えていなかった。箱の底から足だけを出して、彼女は町中を移動していた。野良犬が三匹、うなり声をあげて吠えかかってきたのでミルペは蓋を閉めて恐怖をたえ忍んでいた。
道の真ん中で犬たちが今にもごみ箱にとびかかろうと逡巡しているのを見て、不審に思ったエイデルは大声を上げ、興味半分で血に飢えていたけものたちを追い払い、ミルペを危険から救ったのだった。
エイデルが不思議に思いながらごみ箱の蓋を開けると泣きはらした目で女の子が彼を見上げてきた。
ずっと他人の世話をすることを仕事にしてきたエイデルは、ミルペの有様に愕然となった。彼女の顔は真っ黒でボロしか身につけておらず、髪はところどころちぎれていた。体のあちこちから虫が出てきた。それだけ汚れているのに怪我ひとつない事実にエイデルは驚いた。
ラーホー村を出てから、彼は毎日ヒンレックに剣術や体術を習っていたが、練習をそっちのけにして彼女の面倒を看てやった。熱心に子供の面倒を見るエイデルを見て、ある晩ヒンレックは言った。
「君は剣を振り回したり、人を投げ飛ばすよりもそっちの方があってるよ。わたしにはそうも満足がゆくようには、決してできない」エイデルが何か言おうとするのを片手を上げて勇士は止めた。「君が自分の剣を手に入れたら、その子を救ってやれる者はいない。君は善良な宿屋の息子だろう。ムーアとリーデアの息子・エイデルだろう。君が他人の世話をすることを忘れられる訳がないんだ。だいたい、自分の仕事を忘れられるなら、なぜ君はここにいるんだ。勇士ヒンレックの冒険にかかずらっているんだ。わたしは君に感謝しているよ、エイデル。辛く悲しい旅になるところだったが、君と話していると元気になるから」
エイデルはその日、一人きりになりたくて宿屋を出たが、すぐ部屋に引き返した。再び外に出た時はミルペの手を引いていた。彼女を連れて散歩をすることにしたのだ。彼がどんなにお話をしても、彼女はひとつも覚えることができなかった。彼が誰なのかもあっという間に忘れてしまうのだった。放っておいたらどんなことに巻き込まれてしまうか分からない----。やっぱりエイデルは、宿屋の息子だった。
川のほとりでエイデルが腰をおろしたので、ミルペはそれにならった。彼の悲しそうな顔を見て、自分の名前も分からないミルペは不思議そうな顔をした。「どうしてそんな顔をしているの?」と問いかけるように。彼女は言葉も忘れていたのだ。
エイデルは口を開いたが、ひらめくものがあった。彼は自分の物語をした。滑稽に話せば楽しくなるだろう。思い切りよくふんぎりがつくかも知れない。自分を愚者に見立てた物語を彼は話した。愚かにも勇士になれると思い込み、あやまちに気付いた者のお話。
さあ、みんな寄っておいで。とっても楽しい愚者のお話をしてあげよう。
「けれど彼は満足だった」本当にエイデルは笑っていた。ミルペもつり込まれて笑っていた。どうして彼が笑っているのか分からなかったけれど、本当に楽しそうに見えたから。彼女はエイデルが話している物語のことも片端から忘れていくので何のお話かまったく分からなかった。目の前でエイデルがずっと微笑みかけていたので、ミルペは頬づえをついてずっと楽しそうな顔をすることができた。彼女はずっと笑いを返していた。
やがてお話は終わったが、ミルペは笑っていた。自分から笑っていた。エイデルに笑いかけられているうちに何かが体の中ではじけたのだ。長い間泣くことはあっても笑うことがなかったミルペは、発作を起こしたように腹をかかえて笑っていた。体の中ではじけたものは花の種だったのかも知れない。種は芽ぶき、生い茂って花をつけた。たくさんの花を。彼女は楽しくて死にそうになった。
誰かが頭をなでてくれたので、目を開けるとその人を抱きしめて、ほっぺたに思いきりキスをした。
瞬間、スメーグの魔法は力を失い、ミルペは本当の自分に戻っていた。
記憶を失った彼女が呪いを解くたったひとつの方法は、自分から何かをすることだった。何もかも忘れてしまっては、何をすべきなのかも分からない。呪いは永遠に続くはずだった。
エイデルは誰にでも楽しくお話をすることができた。彼にとっては話をきいてくれる人がいることが喜びだった。自分が誰なのか分からなくても、ミルペがいるだけでエイデルは彼女に感謝して物語をすることができた。彼のその無償の行為が彼女を救ったのだった。
美しい女性が突然目の前に現れて、エイデルは眼を丸くし、今ここにいた女の子がどこに行ったのか知りませんかと尋ねた。
「それはわたしよ。わたしじゃなかった、わたしなの」
エイデルはミルペの視線が眩しかった。よしてくれ、と彼は言いかけた。ただの宿屋の跡とりさ。その…こんなのはまるで、勇士様みたいじゃないか。
彼は心の中でため息をついた。確かに俺には似合わない。よく分かった。そんながらじゃない。
彼の失望は、ミルペによって十分償われた。彼女の物語る昔々のお話を、エイデルは熱心に聞いた。スメーグが勇士であり、バスチアンと同じ人間の子だったこと。
ヴォドガバイが大きな都市だったこと。ドラゴンの最大の武器は触れたものを石にする魔法の白い手であること。ミルペは水晶玉でスメーグを探すことができる。話が終わるとエイデルはひとしきり飛びはねて、「万歳!」と叫んだ。「ありがとう、ミルペ! 君のおかげでヒンレック様も、オグラマール姫もみんな救われる! ありがとう!」
ミルペは感極まって目に涙をためたままエイデルの首にしがみつき、唇にキスをした。「エイデル。あなたのおかげよ。あなたったら、自分が何を話していたのか分かっていないのね。あなたがみんなを救ってくれたのよ」
ヒンレックは、ミルペを連れて出かけたエイデルが立派な魔法使いの姿をした女性を連れて帰ってきたので驚いた。二人の話を聞くとオグラマールとスメーグに続く道が見つかったことを知って彼もまた眼に涙をためてエイデルを称えた。
「ありがとうエイデル! そんなにかしこまらなくてもいい。そんな君だから、わたしは君が好きなんだがね。君も君自身がようやくはっきり分かったようだ。君には君だけにできることがある。それはちっぽけなことかも知れないが、他の人には君がするようには決してできないものなんだ。時にはそれが人を絶望から救い、命を助けることもある。わたしは君という友人を得られて誇りに思う。もう一度、ありがとうと言わせてくれ、エイデル!」
ミルペは自分が最も大切にしている魔法の靴をエイデルにプレゼントした。履けば国の端から端までをたった一歩で進むことができるのだ。
「こんなにしてもらって」とエイデルは言いかけたが、彼女のキスが唇をふさいだ。
最も良いお話とは、より多くのことを語ることではなく、必要のないことはしゃべらないことだ。
2
ミルペは鷹になって空を飛び、ヒンレックは愛馬ブリューゲルで地を風のように駆け抜け、エイデルは魔法の靴で二人のあとを追った。
探索をはじめて三日後、三人は冷たい火の国・モーグールを見つけ、中に石化した森・ヴォドガバイに入って行った。
ラーガー城を守るおそろしい三つの堀は、エイデルの魔法の靴が解決した。彼はまず、器用に縄ばしごをこしらえた。それを抱えて堀をひとつひとつ飛び越えてはしごをかけ、とうとうヒンレックを渡すことに成功した。
「急がなければ」
ミルペはみんなが無事に堀を渡りきると水晶玉から顔を上げて言った。
「スメーグが本性を現してオグラマール姫を石にしている」
ラーガー城は、もはや城と呼べるものではなく、ガレキの山だった。そのてっぺんにスメーグの鏡があり、ヒンレックは剣を引き抜くと打撃をはじめた。鏡が割れると突然目の前にスメーグが現れた。
エイデルは石になったオグラマールが怪物に投げ捨てられるのを見て、魔法の靴で一歩前に踏み出し、あっという間に彼女に追いつくとしっかり受け止め、次の一歩でヒンレックの所へ戻っていた。
〈こんなことはあり得ない!〉スメーグは氷の炎を吐いた。
ヒンレックは素早くよけ、風のように走って相手の脇腹に近づくと剣を突き立て、すぐ引き抜くと離れ、すきを見てはまた攻撃した。スメーグは血のない生き物だった。傷口はすぐふさがり、背後から猛毒を持つさそりの尻尾が勇士に向かってきた。ヒンレックは身体を低くしてかわし、動きを止めないで走り込むと呪われた尻尾を根元から切り落とした。そのまま怪物の背中から肩に駆け上がると、スメーグの弱点である二つの頭の生えた目を切り落とそうとしたが、剣は頭に当たると木の枝のように折れてしまった。折れたところから剣は腐り、鉄クズになった。
スメーグの白い手が向かってきたのでヒンレックは手の中に残った剣の束を投げつけ、肩から飛び降りてふたたび距離をとった。
〈なぜ何もかも知っている?〉スメーグは唸った。
「わたしの名前はヒンレック。お前を滅ぼしにきた者だ」彼は言った。そこへミルペが歩み寄って城の地下に隠してあった武器を勇士に手渡した。彼女は戦いのまきぞえをくわないよう、エイデルと一緒にずっと後ろへ下がってオグラマール姫を守った。
スメーグは目を見開いた。すべてがはっきり見えていた。これから、何が起こるのか分かったのだ。物語が始まる時、誰もが目を見開く。スメーグにとって、始まりとはあやまちの終わりだった。ようやくスメーグは、本当のスメーグに戻るのだ。
自分自身しか信じられないスメーグは、ヒンレックの話に耳を傾けずに襲いかかっていった。 勇士は正面から挑み、地面を強く蹴って宙に浮いた。
ヒンレックはスメーグの顔の前に突き出たワニのような口の上に立っていた。怪物の眼にあたるところに盛り上がっている小さな頭に狙いをつけた。その呪われた二つの頭を、唯一切り落とすことのできる斧を彼は大きく振りかぶった。スメーグは自分の城の足許に自分の弱点をずっと隠していたのだ。
「人間の子よ。またいつか会おう。その時は、楽しい冒険をしよう。わたしたちはいつでも君を待っている」
勇士は斧を左右に振り回し、スメーグのふくれあがった〈のぞみ〉を切り落とした。人間の男の子は、ふくれあがった〈のぞみ〉を通してでしか、世界を見ることも考えることもできなかったのだ。
3
ドラゴンの体は空気に溶け、ラーガー城の三重の堀に埋まっていた恐ろしいものはそれぞれ干上がって消えた。ヴォドガバイの石化した森は、すがすがしい風が吹き抜ける本物の森になった。
体の真ん中に入っていたひびが亀裂になり、粉々に砕けると下から生身のオグラマール姫があらわれた。ミルペが自分のマントで彼女をくるみ、介抱した。
ヒンレックは野原の真ん中に倒れている男の子を見つけ、抱き上げた。彼は少年をかかえたまま、エイデルとミルペの所へ戻ると言った。
「君たちはここからルンの国までオグラマール姫を送って行ってほしい」
エイデルはミルペと顔を見合わせた。ヒンレックは眠っている男の子の顔を見て言った。「この子はきっと自分の名前を思い出せないだろう。自分自身だと思っていた〈のぞみ〉をわたしが切り落としてしまったからね」ミルペがエイデルの方を振り返ったが、ヒンレックは首を振った。「スメーグは呪いで自分を失った訳じゃない。アウリンに願いをかけてしまったからだ。だからわたしはこの子を連れてバスチアンのあとを追ってみる。彼は、アウリンを持っているからね。 バスチアンならスメーグを救えるかも知れない」
ヒンレックが話を終えると、オグラマールが目を開けた。
二人は草の上に腰をおろしていた。
オグラマールの腰まであった金髪は石になった時にすっかり壊れてしまった。ヒンレックはオグラマールの短くなった髪を見て、美しさを感じながら、姫は少し変わられたようだ、と思った。いや、そうではなく、姫はより自分らしくなられたのだろう。この冒険を通じて、みんながそれぞれ、自分自身を取り戻すことができたのだ。
ヒンレックはそのことを語った。今までの冒険を話した。
「この旅は、この子を元の世界に戻してあげることでようやくおしまいにすることができるのです」
二人は、その言葉が間違っていることを感じていた。冒険に終わりはない。一度はじめたら、どこまでもはてしなく続いていくのだ。
スメーグはオグラマールの膝の上でぐっすり眠っていた。彼女は男の子の頭をなでてやった。オグラマールは顔を上げるとヒンレックの目を見たまま、ゆっくり唇を近づけていった。
互いに触れあった時、二人は目を閉じた。オグラマールとヒンレックは同じ夢の王国にいた。これからは、たっぷり時間を使って、ゆっくり話し合えるのだ。おたいがいのことを。
それなら、ちょっと寄り道するくらいかまわないだろう。二人は自分たちの物語がハッピーエンドになることを望んでいた。そのことを祝福してくれるかけがえのない友だちもいる。
生きることは世界と踊ることなのだ。かつてこのファンタージェンを救ってくれた恩人のために、もうひとはだぬいでもいい。二人は心からそう思った。
* * *
エイデルとミルペはオグラマールと共にルンの王国へ旅立った。ヒンレックは一度、銀の都アマルガントに戻ることにした。アウリンを持ったバスチアンの消息を知るためである。彼はオグラマール姫と別れる時、自分の愛馬ブリューゲルを彼女に貸していた。彼がアマルガントに近づくと、石化の呪いから元に戻った、姫の白馬バンターが森の中でさまよっているのを見つけることができた。これからはバンターが勇士の冒険を助けることになる。
やがてヒンレックはヒクリオン、ヒスバルト、ヒドルンに再会し、勇士の四人組が復活する。彼らはスメーグを守りながら旅を続ける。双子の魔法使いが全員を小人にし、丸焼きにして食べようとしたり、魔女の誘惑をしりぞけたためにスメーグをさらわれたり、幸いの竜フッフールを見つけてそのあとを追跡する。ヒンレックは数々の苦難の果てにようやくバスチアンの消息を知る。
ヒンレックは、スメーグと共にアウリンの中へ飛び込み、かつてアトレーユという少年がしたように、人間の子供を救うだろう。
冒険を終えた勇士はルンの国へ行き、オグラマールの夫となる。それからも彼は、勇士のままでいた。オグラマールは新しいリュートを手に入れ、彼女のままでいた。
エイデルは宿屋の亭主になり、ミルペはその妻となり、千年間の疲れをいやしながら、いつまでも夫の物語に耳を傾ける。
* * *
いつの日か、〈エイデルの宿〉の扉を叩く者が現れる。髭を生やした宿屋の主人が出ていくと、男の子と女の子を連れた勇士ヒンレックが立っている。
ヒンレックは言うだろう。
「エイデル! 君の魔法の靴はまだ残っているかね? 力を貸してほしい。大変なことが起きたんだ!」
けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。
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