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勇士ヒンレックの冒険
「鏡の裏」 原稿用紙:39枚
1
人生のある時点で人々が、最も愛すべき者から離れ、最も親しい者を嫌うのはなぜなのか? それを夢見るのはなぜなのか。やがて自らあやまちに気がつき、その人の正体を知る時がくるのはなぜなのか。それこそ真実の愛だ、と今になってルンの姫・オグラマールは知ったのだった。分からなかったことにはっきり気がつくということ。それは、深い愛以外の何ものでもない。
彼女の大事なリュートは、銀の都アマルガントから故郷ルンへと続く小道に投げ出されたまま、まだ草の中にうもれているにちがいない。バスチアンにやぶれたヒンレックに見切りをつけた、ふるさとへの帰途なかばに事件は起きた。彼の元を離れ、曲がりくねった小道を馬に乗って進みながら、小休止のたびにオグラマールの指は小さな楽器から悲しい音色をつむぎだしていた。なぜ悲しいのか、それを知りたくて音を作っていた。継続から結論が生じることを、芸術家である彼女は経験から悟っていた。
まだ日は明るかった。いつもは優しい言葉を馬にかけてやったり、鼻歌をうたって楽しく旅をするのだが、オグラマールはずっと黙って、曲の続きを考え込んでいた。山道を下っていた時、彼女は不意に巨大な生き物と遭遇した。
ドラゴンだった。
カンガルーのように前足だけで立ち、かかとは浮かせていて、ねばねばした膜でできた羽が呼吸に合わせてゆっくり浮き沈みを繰り返していた。怪物の息の音を聞いているだけで彼女の鋭い感性は、邪悪が自分を征服しようとする意図をはっきり読みとった。その身の丈は、小さな家ほどもあった。
その時、オグラマールは気付いたのだった。自分がヒンレックの名を叫んでいることを。
馬が後ろ足で立ち横倒しになって坂をすべり出した。彼女は地面に投げ出された。腕や脚を折らずにすんだのは、小脇に抱えていた大切なリュートが彼女の下で砕けて、衝撃を抑えてくれたからだった。
寸足らずの白い手が伸びてきた。彼女の愛馬はそいつにつかまった。美しい生き物は身じろぎしたかと思うと、たちまち石に変わってしまった。ドラゴンは自分の造形物をとっくり眺めると無造作に投げ捨てた。こんなものよりもっとほしいものがあった。ほとんど足音をたてず、怪物はゆっくり近づいてきた。そいつは眼にあたるところに小さな頭がひとつずつ生えていた。オグラマールは嫌悪感で気を失いかけた。腰がぬけていた。後ずさりして逃げたが、背中が木にぶつかった。
オグラマールの頭の中からは、とっくにファンタージェンの〈救い主〉バスチアンの名は消えていた。
自分が何を望んでいるのか、はっきり分かった時はもう手遅れだった。人生の深刻な問題は、いつも気付いた時には手遅れか、さもなければただちに事を起こさなければ手遅れになるかのどちらかだ。彼女はヒンレックの名を叫んだ。そうすれば恐怖が和らぐことが分かっていた。自分では叫んでいるつもりだったが、祈るようなつぶやきにしかならなかった。
勇士はその頃、彼女が遠くあとにしてきた街の酒場の片隅で失意に打ちひしがれていた。
巨大な生き物の影が自分に落ちかかった。オグラマールは自分が間違っていたことを、息が止まるような後悔の痛みと、体にまとわりついてきた白い手の恐怖とからはっきり悟った。バスチアンは〈アウリン〉に守られた人間の子だったのだ。
ヒンレックだろうと、目の前に現れた怪物だろうと、ファンタージェンのものが人間の子にかなうわけがないではないか。
オグラマールには誓いがあった。「すべてのものを打ち負かした最も偉大な勇士でなければ夫としない」ヒンレックは、〈救い主〉を探し出して、お守りするための、三人の使者を選び出すアマルガントの競技大会に出場した。彼は最後に勝ち残ったヒクリオン、ヒスバルト、ヒドルンの三人を一度に相手にして、見事打ち負かした男だった。最後にはバスチアンが現れてすべてをぶち壊しにした訳だが、そんなことはもう、どうでも良かった。
魔法の白い手がオグラマールをつかみとった。彼女は息がつまり、眼を閉じた。
わたしは望んでいて、とうとう期待にかなう男に出会い、最後に裏切られて腹が立っていたんだ。ヒンレックに、あの人に、わたしの〈すべてのものを打ち負かした最も偉大な勇士〉になってほしかったのに。そうなると信じさせられていたのに、最後の瞬間にがっかりさせられたから----。
今、オグラマールはそのことに気づいた。そして恐怖が彼女を支配した。白い手は冷たかった。彼女は吐きそうだった。ドラゴンは地面を蹴り上げ、空へと飛び立った。誰も追ってくることのできない空へ。三重の堀に囲まれ、千年ものあいだ勇士たちを殺してきたおのれの住処、鉛のラーガー城へ向けて飛んでいった。
わたしのヒンレック!
オグラマールはどこかでそう叫んだ。彼女はもう自分の声が届く訳がないと思い、気を失った。
2
美しい夢が自分を取り囲んでいた。場所は分からない。小さな川が流れていて、蝶が水につかった石の上を飛んでいた。オグラマールは芝の上を裸足でゆっくり踏みしめて歩いた。ここでは、何もかもがゆっくりと動くようだった。本当に気持ちが良いということは、ゆっくり動けることかも知れない。誰もが人生の中で、はやくあらねばならないのだから、おそいということは最高のぜいたくなのだ。
ここは夢の王国だった。彼女はため息をついた。
ここで、あの人とずっと過ごせたら良いのに。時間をたっぷり使って、ゆっくり話し合いたい。おたがいのことを。
ヒンレックへの愛を思い出すと、それは小さなとげとなって胸に突き刺さり、現実の痛みをよみがえらせた。おぞましい竜の記憶が背中からうなじへと這い上がり、寒気をもたらせた。彼女の周りの美しい小川や小さな生き物たちの風景が色を失い暗くなる。いやだ! まだ覚めてほしくない。オグラマールは自分の心にうそのつけない人だった。自分がどこにいるのかを知っていた。彼女は呼吸を小さくし、何らかの臭いや肌触りが自分に恐怖のイメージを連想させることのないよう、できるだけ刺激を意識にのぼらせず、何も考えまいとした。震えながら、両手で体を抱きしめ、頭を低くすると身を固めた。
それでも彼女は知っていた。ドラゴンが自分を抱えている。自分が冷たい指の上に横たわっていることも分かっていた。風が吹きすさび、髪の毛が激しく乱れていた。耳をすませば、怪物の息が聞こえ、おぞましさのあまり気が狂ってしまうか、この束縛された状況がたまらなくなって暴れ出してしまうかも知れない。その結果は自分の馬を石にした、あの魔法の手で石にされるか、握りつぶされて永遠に黙らされるかだろう。あるいは簡単に、高い空の上から落とされて首の骨を折るのだろう。
もっとはっきりしたことも分かっていたが、オグラマールは自分のすべての能力を使って夢の王国を呼び戻した。彼女はそれが自分の生死にかかわる重大事であることを知っていた。恐怖はすべてを難解にする。人間の不幸とは、謎が解けないことだ。答えがみつからず、頭をかかえて、身動きがとれなくなってしまうことだ。
想像力を通して見れば、どんなことも易しくなる。
誰かが自分を抱きしめていた。力強い腕。夢の王国の中で顔を上げると暖かな雨が彼女の頬に降ってきた。
「ああ、ヒンレック!」彼女は夢の人に呼びかけ、彼の胸の中に飛び込むと、また顔を上げ、首を傾げた。
「わたしのヒンレック! わたしはあなたを愛しています。心から」彼女は一息に言って、彼にキスをしようと背伸びをしたが、届かなかった。つま先で立ってみたが、彼の顔は遠ざかっていく。ヒンレック! オグラマールは泣き叫んでいた。「ヒンレック!」彼の名をオグラマールは叫び続けた。自分は許されないことをしたのだ。それでも、彼の名前を叫ばずにはいられなかった。その名前の人に、そばにいてほしかった。
オグラマールの顔には、ヒンレックの涙がこぼれるだけだった。それは暖かった。悪夢にうなされる人はため息をついた。夢の人のあとを追って、オグラマールは沼のように深い眠りの中へ沈んでいった。
勇士の名前を叫び、オグラマールは無意識のまま体を起こした。夢の中のヒンレックに向けて伸ばした手の先には扉があった。ちょうど音を立てて閉まるところで、ドアの向こうにいる者の姿は見えなかった。ただのドア。ノブが一つ。格子も窓もついていない。彼女は大きなベッドの真ん中に横たわっていた。やがてオグラマールは目をはっきり開け、恐怖に立ち向かう決心をした。
誰か人が見ていたら、このお姫様はずいぶん勇気があるんだな、と感心したかも知れない。事実はその反対で、彼女はおびえきっていた。それでも、オグラマールはやるべきことをやらないと、状況がもっとひどくなることを承知していた。死ぬほどおびえていた。愛する人をまちがって傷つけてしまった。怪物に襲われ、大事なリュートは壊されてしまい、大切な友達だった白馬のバンダーは石にされた。おまけに今は自分がどこにいるのかも分からない。事態は最悪だが何もせずにいたらもっとひどくなる。既に転がりだしたのから何としてでも食い止めなければ。オグラマールは先へ進まなければならないことを理解していた。誰が何と言おうとも、何が起きようとも進まなければならない。ヒンレックも、エイデルも、先へ進むことをやめたりはしない。
足をずらし、床に下りる時、彼女は奇妙なことに気がついた。
ベッドのシーツが埃をかぶっていた。きちんと整えられているのに? 足の下のじゅうたんもほんの少しよごれている。ながいこと家を空けて、何もせずに放っておかれた部屋はこんな有様になるに違いない。締め切られた部屋に特有の湿っぽい臭いもする。だが、どうしてだろう? オグラマールは不思議に思い、あたりを見回した。
あのように大きくて恐ろしいドラゴンの住んでいる場所に、ベッドや、じゅうたんなどの家具が、なぜ必要なのだろう? 部屋は薄暗かったが、目を凝らすとだんだん物の影が浮かび上がってきた。
中央に丸テーブルがあり、水差しとカップが二つ置いてあった。くだもの入りのかごまである。あんな怪物が自分の生活のために用意したのだろうか?
オグラマールは自分の想像力がもたらしたジョークを歓迎した。自分のおかれている状況がそれほど深刻なものではなく、ユーモアが含まれているのだと信じたかった。心の眼には巨大な生き物が買い物かごを下げ、市場の行列におとなしく並んでいる光景が見えていた。ばかね。彼女は自分の才能に苦笑し、かぶりを振った。まったくなんてことを考えるんだろう? ドラゴンは岩穴で眠り、処女を丸飲みにするんでしょう? そのくらい、子供でも知っているわ。
思いにふけっていたせいで、背の高い老人が自分のそばに立っていたことに気づかなかった。何の脈絡もなく、彼女は自分が一人ではないことを唐突に発見することになった。オグラマールは悲鳴を上げて立ち上がり、誰かが出て行ったドアまで駆け寄った。ノブは回らなかった。
「気の毒にね。わしもさらわれてきたんだよ」
オグラマールが振り返ると、彼は一歩も動いておらず、弱々しい微笑みを向けてきた。「わしは、もう自分の名前を忘れてしまったが、占い師なんだ。もうずいぶん長い間ここにいるのさ。よければ、きみの名前を教えてくれないかね?」
オグラマールは深いため息をついた。「おどろいてごめんなさい。わたしはオグラマール。ルンの国の王女です」
老人は頷いた。「さぞ怖かっただろうね。ここまでの道中は。長い間、色んな女性がさらわれてきたんだよ。ああ。あのドラゴンを滅ぼせる者などいないのだ」
「真の勇士ならできます!」
口から出た言葉は自分でも驚くほど大きかった。老人は目を見開いた。そこに恐怖の色が映ったように見えたのはなぜだろう?
3
幼い頃からオグラマールは、芸術と学問に親しんできた。才女となるための教育を周りから受け、自分からも熱心に求めた。成長した彼女は本当の勉強をしたくて城を抜け出した。彼女は世界を求めた。自分の世界を。お城は色々な意味でせまくて勉強にならなかった。やがて、彼女は自分の夫となる人を探す決心をした。オグラマールは自分のものは自分で見つける人間だった。
ヒンレックたち勇士の一行に出会うと、たちまち意気投合し、彼女は彼らと安全に旅を続けた。オグラマールはごく自然に家事全般をこなせるようになっていった。旅ははじめに考えていたよりもずっと地味だった。何をするにしても、自分の心がけ次第なのだとすぐに悟った。食事の支度は手間をかけるほど、喜ばれるものができた。どんな作業も心をくだいて熱心にやりとげた分、生活にそのまま反映し、暮らし向きは明るくなった。彼女は新生活を面白く思った。毎日は淡々と過ぎていく。穏やかな暮らしに変化を与え、勇士たちを快活にしたのは彼女の演奏だった。ヒクリオン、ヒスバルト、ヒドルン。あの人たちは今も元気にやっているだろうな。オグラマールはドラゴンにさらわれ、意識を取り戻してからずっと、自分の手先が楽器の弦に触れたがっているのを痛いほど感じた。
ドラゴンにさらわれてきてからは、彼女には生活だけだった。生活は誰かのため、何かのためであってこそ報われる。彼女は思いだした。夕食後に自分がリュートをつまびくと、勇士たちの心は自由になり、空気に溶け合って、みんなの気持ちがひとつになっていた。もちろん、本当にひとつになることなどありえない。あれは調和した、という方が正しい。調和。それぞれがありのままでありながら、整っているありさま。またみんなと調和できる日がくるだろうか?
彼女は最初の一週間が過ぎるまで、我慢した。老人の話す物語は、嘘だけのように思われた。希望を指し示すことがない彼のお話を聞いて、毎日少しずつオグラマールは苛立ちがつのった。なぜだろう? 彼はよく話をした。物語るということは、自分だけの時間をつくることではないのか? オグラマールには理解できないことだった。自分なりの上質さを求めるのが、人間の時間に対する欲求であるとするなら、彼のお話のどこに上質さがあるのか? どうしてもそれをお話の中に見つけることができず、彼女は頭を悩ませた。
つつましげな夕飯を彼女と共にすませたあと、暖炉に薪をくべながら、老人は毎晩ぼんやりと話をした。エイデルがこの場にいてその有様を見ていたら、気が狂いそうな話し方だと遠慮なく打ち明けたことだろう。
「楽しくなんかないじゃないか!」若き語り部は断固抗議するだろう。「俺たちはあんたを見て、耳を傾けているんだぞ。自分がどこにいるのかも分からないような話し方は後生だからやめてくれよ!」
オグラマールは思った。自分がそばにいても、この老人の物語には関係がないのだろう。彼女が思うに、老人は彼自身に言い聞かせるために話をしているのだ。彼の物語は時々中断し、手を動かして炎の中に薪を放り込むとまた始まった。彼は楽しいのだろうか? 面白いのだろうか。話をするのは愉快なのか。使命なのか義理なのか。彼女にはまったく見当がつかなかった。
初めて会った時、自称・占い師の男は語った。あのドラゴンは、自分に脅威となる何者かがファンタージェンに出現することを唯一おそれていて、それが成長したり、力をたくわえたりする前に、殺したり壊したりしてきたというのだ。
「わしに占わせるんだよ。そういったものがどこにあるのか。あるいはどこに住んでいるのかを」彼は言って肩をすくめた。「わしが生かされているのは、それだけの理由さ」
「どうしてあなたは自分の名前を忘れてしまったのですか?」
オグラマールが質問をすると、彼は黙って横を向いた。
なぜ、お城の大広間にわたしたち二人を閉じこめているのか(彼女の働きで部屋はすっかりきれいになっていた)。
いつも、どこから食材や生活の道具があらわれてくるのか(いつの間にか戸棚やポットに入っていた)。
老人は決まって横をむいた。彼女がうなだれるとまた話がはじまった。
これではいかに寛大な人間でも、苛立ちがつのるというものだ。
「ここはヴォドガバイという石化した森の真ん中にある。この城は第一に緑の毒、第二に硝酸、第三に大人の足ほどもあるさそりがひしめく堀によって守られた鉛の要塞なのだよ。----ラーガー城というのだ。誰もがひどく恐れ、口にするのも嫌っているので、今となってはこの森も、この城もあのドラゴンの名も、知る者はいない。あの怪物はスメーグというんだ…。これで、あれの名前を知っているのは、わしとあなたの二人だけさ」
オグラマールは、話が終わると肩をすくめる老人の癖を早くも見抜いていた。
それは孤独な人間の仕草だった。わたしはここにいるのよ。そう言ってみたかったが、彼が肩をすくめそうなので我慢した。
4
さらわれてから一ヶ月目、オグラマールは老人の物語に飽きた。ここから脱走する計画を立ててみたが、老人は反対した。これまで、何人もの女たちが鉄格子のはまった窓から出ようとしたり、一つしかないドアを破ろうとしたが徒労に終わったと話し、彼は肩をすくめてみせた。
「あなたのお話はまったくつまらない」オグラマールは老人に背を向けて言った。
彼女は鉄格子を両手でつかんで揺さぶってみたが、腕を痛めただけだった。格子がささっている箇所をナイフで掘ってみようとしたが、刃がこぼれるだけだった。
腹立たしいことに、明日になればナイフは元通りよく切れるだろう。一度、陶器のカップを落として割った時、老人は肩をすくめて言ったものだ。
「気にすることはないよ。明日になれば元通りさ。ここじゃ、壊れたり、無くしたりするものなんてないのだよ。多分、魔法なんだろうな。まったく便利な力だ」
オグラマールは気に入らなかった。陶器の破片に目を落として、彼女は言った。
「ここじゃ、大事にできるものが、何もないというのですか?」
老人はしばらく口を開けっぱなしにした。言うべき言葉が見つからなかった。気を取り直すと言った。「いや、まあ。安心じゃないか。そうだろう? 壊れなければ気にすることもないし、新しいものを手に入れなくともすむ。オグラマール。どうしてそんなに困った顔をするのかね?」
「ここは乾いているわ。心をまったく使うことがないなんて、貧しすぎる」
彼女は途方に暮れた。「あなたはいったい誰なのですか?」
老人は黙って横を向いた。彼女は壊れたカップをそのままにして床から立ち上がり、彼に近づいていった。
彼の顔は石のように固くこわばり、灰色の瞳は始終そらされ、決してオグラマールの姿を映さなかった。もしかすると----彼女は一歩しりぞいた。わたしは、このおじいさんの目の中に映らないのではないか?
彼女は疑念を追い払えず、後ずさった。
老人は誰なのか?
何人もの女性が、ドラゴンによって連れてこられたのを見てきた彼は一体何歳なのか?
脱走を考えているオグラマールが彼に今、いちばん尋ねたいことは、さらわれてきた女性たちが、最後にはどこへ行ったのかということだ。いずれ、自分もそこへ行くことになるのだから。
質問をすれば、老人は決まって横を向いた。肩をすくめることもあった。そんなわけで----彼女の忍耐はもはや限界だった。
オグラマールは椅子を振り上げ、床板に力いっぱい叩きつけた。
「お姫様はそんなことをするものじゃない」老人はむっつりして言った。
「わたしは、勇士たちの友達なの」彼女はこたえた。「何も壊れず、大事にしてあげられないというのなら、ここには何もないのと同じだわ。気にすることは何もないのじゃなくて?
「知っている? わたしはオグラマール。わたしが自分の王国へ帰らなかったら、悲しむ人がたくさんいるの。わたしは行かなければならないの。自分が誰なのか、はっきり分かっているのよ。わたしは、ここから何としても出て行くわ」
老人は手を後ろで組んだ。オグラマールは目まいを感じた。
背の高い男の足もとから、影が部屋中に広がっていった。
オグラマールは老人に愛想をつかし、背中をむけていたので異変に気づかなかった。ただ目の前が真っ暗になったのを知って驚いた。彼女は再び振り上げた椅子を取り落とした。騒がしく震える椅子の背に両手でしがみつき、彼女は喘いだ。
「寒い。体が急に重くなったわ」
「だったら休むがいい」
長い爪が老人の後ろに回した右手から、一本伸びた。床まで垂れ下がった。彼は奥歯を噛みしめていた。オグラマールは気づかない。
「いいえ」彼女は言った。「わたしは…出て行かなくては。自分の居るべきところは、はっきり分かっているの。ここにいる訳にはいかないの」
「なぜ、ここにとどまらないのだ?」
不意に冷たい肉の固まりが、オグラマールの全身をおおい、きつく締まった。覚えのある感覚だった。忘れられるものではない。
「あなたがドラゴンだってことは分かっていたわ」彼女は言った。
闇が部屋の隅から巻き取られていき、持ち主の所へ戻っていった。徐々に明るくなる部屋の中で、彼女は息を深く吐いた。
巨大なアーチ型に変わった老人の右腕がオグラマールをつかまえ、宙に持ち上げていた。触れたものをもの言わぬ石に変えてしまう、魔法の白い手。彼女のドレスが平たい石に変わり、音を立てながら割れはじめた。
オグラマールは自分の体が冷たくなっていくのを感じた。ドラゴンの手は彼女から熱を奪っていた。見下ろすと、床に立っている者は、もう人間の形をしていなかった。左右の目玉が膨れ上がり表面に口や鼻が生えてきた。服の下で何かが這い回っていた。口がとがり、どんどん前へ突き出てきた。
〈わしがドラゴンだと、なぜ分かった?〉奇妙な声だった。大人と子供、それに老人の声が重なって聞こえた。
「はじめから。あなたの姿は二重映しになっているのよ」
オグラマールは声が枯れ、咳をしようとしたが、首が動かなくなっていた。
彼女の前髪が細かい櫛の歯のようにとがり、細かく砕け始めた。寒い----。オグラマールは震え、自分の表面が崩れ落ちていくのをどうすることもできなかった。彼女は話しはじめた。何かしていないと今にも握りつぶされるかも知れない。どう考えてもドラゴンに忍耐力があるとは思えなかった。
「あなただって、初めからみんな知っていたはずよ。みんなに知られているって。ここに来た人はね、みんな知っていたに違いないわ…。知っていても、みんな、あなたがドラゴンになることを恐れていたのよ。本当のことを言ったら、ドラゴンになってしまうことが分かっていたのよ。もしかすると、あなたを傷つけたくなかったのかも知れない…」
オグラマールはどうにか右腕を引き抜いた。冷たくてやりきれなかった。彼女が見ている前で、指先が石柱に変わった。ヒクリオン、ヒスバルト、ヒドルン、そしてヒンレック。彼らと共に過ごした時間が爆発した。輪郭のはっきりした絵となって目の前によみがえった。郷愁の思いが血の中に熱くあふれて心臓に流れ込んだ。痛みの激しさに彼女は小さな悲鳴をもらした。オグラマールの目から滂沱の涙がこぼれた。
もう作れない! 音を。楽しいひとときを。指同士が重なり、彼女の腕は石の棒になった。夢をつむぐ者にとって、できないということは最大の恐怖だ。
〈お前のように聞き分けのない女は初めてだぞ。ルンの王女、オグラマール〉ドラゴンは吠えた。〈ここで永遠に、安全に生きることをなぜ考えないのだ?〉
オグラマールは涙に濡れた目をむき、怒鳴った。
「わたしは自分をごまかす嘘がつけないのです! それはわたしのためではなく、あなたのために言っているのよ! わたしは、自分が誰なのか本当は知っているくせに、天にそむいてまでその価値を投げ捨てて、安易な、ありきたりの自分でしかいられない臆病者が大嫌いなのよ!」
ドラゴンは笑った。
〈わたしが臆病者だというなら、この手の中から抜け出してみるがいい。もの言わぬ石となる前にな〉
高々と笑いあげながら、怪物は天井にむかってオグラマールをかかげた。石になった彼女の金髪が雨のように落ちていった。
スメーグはすっかり本性を現していた。
左の目は老婆のしわだらけの頭で、唇は血の色をしていた。右の目は老人の頭で耳がとがり、断末魔にもがく悪鬼の眼をしていた。ワニのように突きだした口。背中の、ねばねばした膜でできた羽が、呼吸に合わせて上下していた。
〈お前に何ができる、オグラマール姫。世の中の自称・勇士たちに何ができる。わたしはファンタージェンで最も強い。実におかしなことだが、ファンタージェンでそのことを知る者はいない。わたしにとって最大の敵である肝心の勇士たちでさえ知らぬのだ。やつらは竜などもういないのだと高をくっている〉スメーグは鼻を鳴らした。〈わたしが楽しいのはな、オグラマール。彼らの背後から忍び寄ることだよ。勇士たちに傷つけられたことは一度もない。わたしを臆病者と、無理に強がってまで罵倒するのか? それはなかなか滑稽だ。賢いあなたのことだから、もの知らずの勇士たちを何と呼ぶのがふさわしいか知っているはずだな。きっと、快く教えてもらえるに違いない〉
「あなたは…」オグラマールは目が見えなくなってきた。まぶたまで石化が進み、唇も動きにくくなってきた。「あなたは弱虫よ」
体をしめつける力が強くなり、全身の感覚が急速に消失した。
オグラマールは両目をつむった。自分には魔法の力に対抗する術はないし、ドラゴンと戦う力もない。それでも彼女は、なんて情けない子だろうと、聞き分けのない息子を相手にした母親のように、怪物にすっかり失望していた。
こんな馬鹿げたたわごとを聞かされるのはうんざりだった。
この部屋へやって来てから、何か正しいことが起こったためしはなかった。物が壊れないばかりか、人間らしい、まともな話をしたことがなかった。自分の慣れ親しんだリュートに正しく指をすべらせることを、彼女は幾度も夢に見た。正しい和音、正しい旋律。仲間との合奏、合唱、そして、オーケストラ! 調和と進行こそ、芸術のもたらす恩恵であるとオグラマールは信じていた。ここには虚飾と捏造しかない。
今や化けの皮を自らはがしたドラゴンすら、真実と対決する力を持っていなかった。
一目で見抜かれてしまうような嘘を平気で突き通せると思っている意気地なしにすぎなかった。
調和と進行。
正しいことがそのまま通る世の中ではないにせよ、時には破壊や暴力が望まれることがあるにせよ(行為そのものを喜ぶ悪人がいるにせよ)、彼女は自分自身を失いながら確信していた。善悪を問わず、調和と進行がすべての時間の上に漂っていることを。事の正否などわたしに分かる訳がないけれど、これだけは確かだわ。人間は、自分がいるべきところにいると知っているのなら、死ぬことだって満足して受け入れられるのだから。
わたしの勇士たちはいつも冒険を望んでいた。冒険。生きている者の最も気高い行為でないか? 冒険とは! 自らの望むべきものを望み、出会いを求めてどこまでも進んで行くのだ、あの人たちは。
ドラゴンが自分をあざわらっていた。わたしが自分の問いに答えようとしないので、今度は怒っている。
それが何だというのか。
オグラマールは怪物の求めているものが分かった。彼もまた調和と進行をほしがっているのだ。幾度も試みてきたのだろう。どれだけの人々が犠牲になったことか。自分を隠していては、手をとってダンスを踊る相手が見つからないのも無理はない。誰でも、影と踊る訳にはいかない。
オグラマールは微笑んだ。ほんのわずかな微笑みだった。勇士たちの物語を覚えていることが誇らしかった。調和と進行。馬鹿げた部屋で、おかしな(と言っても間違ってはいないだろう)、奇妙な形に膨れあがったドラゴンに、わたしは石にされてもうすぐ心臓が止まってしまう。これほど常識からひねくれた状況にあっても、自分が正しさを求めていることが分かって嬉しかった。わたしは時間の上を漂っている調和と進行をきちんと感じることができる人間なのだ。このドラゴンみたいに、嘘でくるまり、停滞を望まなくてもいいのだ。オグラマールは口を開いた。彼女はしゃべりたかった。自由を奪われ、死が迫った今、言葉を重ねていくことが自分を取り巻いている恩恵への、彼女ができる唯一の返答だった。
彼女の言葉に恐怖の響きが微塵もないことに、ドラゴンは忌々しげに目を開き、そして細めた。オグラマールの声は眠たげだったが、言葉は流暢に、部屋の隅まで流れて行った。
「あなたは…勇士という名を…知っている」これが最後の息になるかも知れないと思いながら、吐き出し、できるだけ吸い込む。それはため息に似ていた。深い、安堵のため息だった。
「----この世で最も強いのは、ものの名前…。名付けられたものたち…。あなたが勇士という言葉の意味を知っているかぎり、その人は必ずあなたの前にあらわれる。あなたは何処へもいけないわ、スメーグ。あなたは自分を隠し続けているから。だからこそ、あなたを解放する者が必ずやって来る----」
ドラゴンの、オグラマールを持ち上げていた手が強く握りしめられた。自分の顔の前に持ち上げて、そのまま石になっていた彼女の右手にひびが入った。ひびは腕を伝い、胸に達し、首から彼女の顔を稲妻型に走った。
〈来るべき者が来ると思ったら大間違いだぞ、オグラマール〉スメーグは押さえた声で言った。
出し抜けに千人の兵士が一度に扉を拳で殴ったような音がした。ドラゴンはオグラマールを掲げたまま、慌てて振り返った。殴られたのは、あの、鉄格子も小窓もついていないドア。ノブが一つきりのドアだった。
はじめ、スメーグはただ当惑していた。あまりも長い間、起こりえないと考えていたせいだった。次に扉が内側にむかって吹き飛びそうなほど叩かれると、思わず叫び声をあげた。醜い羽根を使って宙に浮かび、部屋の奥まで後ずさった。
外からの連打は激しさを増した。こんなに続けざまに力いっぱい叩ける者がいるとは、スメーグには信じられなかった。
いつか、誰かが語ることがあっても、こんなことは誰も本気にしないだろう。エイデルはそれでも物語をするだろう。それが真実であればよいのにと希望を持ちたがっている人々のために。彼はこの場面を上手に、声をひそめて話すだろう。
〈こんなことはあり得ない!〉
どれほど多くの人間が、その言葉を口にしてきただろう。
〈こんなことが起こるはずがない!〉
夢が現実となった時、誰もが死に物狂いで戦わねばならない。
次第に、扉にひびが入りはじめた。日の光がひとすじ、真っ直ぐに差し込んでオグラマールの額を照らした。彼女は閉じかけていた目を開き、扉の様子を見て微笑んだ。表面に部屋の様子がすっかり映っている。なんだ。あれは扉じゃなかった。
鏡だったのだ。
スメーグは外から真っ直ぐに差し込んでくる日の光に怯え、自分の世界に入ってくる何者かに怒号を浴びせた。かわいそうに、とオグラマールは思った。この怪物は気の毒な存在にしか思えなかった。この世に形を成して以来、スメーグが一度でも本当に戦ったことがあるとは、彼女には想像できなかった。何もかも自分の思うとおりにやってきたのだろう。一度も本物の冒険などしたことがない、可哀想な子。
鏡が壊れた。破片がひとつ、転げ落ちた。またひとつ。またひとつ。外の光をいっさい中へ通さなかった(内側のものを何一つ出さなかった)、ドラゴンの魔法の鏡は粉々に砕けつつあった。それは裏も表も鏡だった。
外で誰かが剣をふるっているのが見えてきた。
鏡はまだ魔法を保っていた。頑固に音も言葉も通さなかったが、古くなって釘がすっかり浮き上がった本箱のように、危なげに揺れていた。時々、剣をふるっている人が叫んでいるのだろう、ドアの表面が激しく震えた。城のてっぺんにある大鐘が鳴ると、階下にある部屋の壁が震えるのにそっくりだった。
来てくれたんだ。とうとう来てくれたんだ。待っていた人が。望んでいた人が。
オグラマールの目から最後の涙がひとすじ流れ、瞬く間に細い石となって顔にはりついた。
スメーグは外からの響きを耳にし、鏡が震えるのを見て恐怖のあまり絶叫した。ほとんど意識しないまま、石になりかかっているオグラマールを部屋の隅へ放り出した。
世界が回転した。この世の最後に、世界と踊るのもなかなかいい。彼女は安らかな気持ちだった。調和と進行。自分がそれを望んでいるのが分かっていた。たび重なるあやまちですべてがすっかり狂ったのも分かっていた。今また、そこへ戻って行くのが分かっていた。調和と進行。強く、きびしい響きを持つ言葉だ。にも関わらず、それが自分の人生に欠かすことのできない言葉であることを彼女は分かっていた。
世界がオグラマールを中心に回転した。世界が止まってしまえば、自分自身も止まってしまうのだ。世界と踊るのは楽しい。生きることは踊ることだ。そうにちがいない。オグラマールは愛しいヒンレックのことを思い浮かべたが、不思議なことに考えはスメーグの方に寄せられていった。可哀想な子。あなたは、あなたの世界を見つけなければ。
踊るのよ。こんな風に。ほら。世界といっしょに踊るのよ。
部屋の壁にぶつかってしまう前に、オグラマールが目にしたものは砕け散る鏡と、部屋の中に飛び散り、広がった陽の光、外の光の中に立っていた----ヒンレックだった。彼は鏡の内側に踏み込み、オグラマールの名を叫んだ。彼女はその声を聞いた。
壁が近づいてきた。オグラマールの世界が舞台から立ち去りかけていた。
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