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勇士ヒンレックの冒険
「序章」 原稿用紙:21枚
1
飲んだくれのエイデルは願いごとばかりしている男だった。平凡な楽しみと苦しみのある家に生まれたわたしの村の男だと、そこに住む大人たちは息子のように、子供たちは兄弟のように愛情をこめて、彼をあなたに紹介するだろう。
父親のムーアは宿屋の亭主だった。手先の器用な働き者で、帳簿をつけ、シーツの交換をし、食事の世話をするのが一日の仕事だった。大きな体で心はいつも眠そうな目をしているサイのように落ち着いていた。時間をかけてゆっくり、丁寧に働くのが大好きだった。たまに酔っぱらいや無法者が暴れ出すと、かたい頭を相手のみぞおちに向けて力いっぱいぶつかっていくのが彼の戦い方だった。〈頭突きのムーア〉にかなう者は村にはいなかったし、泊まり客にもこれまではいなかった。
結婚してから、ムーアはもっとゆったりとした動作になり、仕事はより正確になった。彼の手元は狂わず、初めて出会う綴りでもいつも慌てず、はっきりと読みやすい字で書いた。客室は清潔でいい香りが漂っていて、足を踏み入れたお客は社交辞令など忘れてしまい、心に思ったとおりのことを言うことができた。料理は手の込んだと調理と繊細な味付けをほどこすおかげで、材料はありふれていたが滋味に富んでいた。そのような食卓に文句を言うお客はいなかった。
誰かが「この宿屋はいつからあるんだい」とか、「あんたの親父さんも宿屋だったのかい」と言うたび、ムーアは喜んだ。ムーアにとって本望とは、自分がこうありたいと願いながらやっていることを人に認められることだった。彼の野心はいつか看板を無くしてしまうことだった(それは単純に〈ムーアの宿〉と書いてあった)。外から見ただけですっかり中身をうかがい知ってしまい、「一晩泊まれるかい?」と旅人がいつか訪ねてくることを想像すると、ムーアは幸せな気持ちになれるのだった。
宿屋はけっして儲かる仕事ではなかったが、本人いわく、「いつでも俺の背丈にぴったりの衣服のようなもの」だった。彼の親父も、その親父もずっと宿屋の亭主だったから、周りの人間も全くその通りだと感心した。たいていの人は何を着たら良いのか、はっきりと分かるまでにたいへんな周り道をする。
ムーアは貧乏だが、どこへ行くにも王様のように堂々としていた。
吟遊詩人や旅のサーカス団が一宿一飯を求めてくると、ムーアは普段よりいっそう優しく振る舞おうとした。ファンタージェンに住む者なら誰でもそうだが、言葉や、物語をたくさん知りたかったからだ。流れゆく者たちはあらゆる話を耳にしていた。
リーデアは、ムーアが歓迎する旅人の一人だった。リュート弾きで、美しい金髪を腰のあたりまで垂らしていた。彼女はサーカス団に育てられた孤児だった。幾つか芸を仕込まれていた。いつも真っ直ぐに立ちむかっていくことしか知らなかった〈頭突きのムーア〉は、彼女の曲芸にびっくりした。
色とりどりの玉が彼女の手に操られ、上へ下へと踊るさまにムーアは口をあけて見とれた。リーデアがリュートを奏でると、初めて聴く旋律に彼の心はかき乱され、意識は音色に飛び乗ってつむじ風のように楽しく踊った。ムーアは彼女に出会うまで女性を意識したことはなかった。それなのに――リーデアが家の外で焚いた明るい炎の周りを逆立ちして歩き、次に腕を真っ直ぐに伸ばし、バク転でくるくると回り始めると――彼女の頭のてっぺんから足の先まで、ムーアは体中の神経を集中しないではいられなかった。
こんなにも美しいものがこんなにも生き生きと動くことができるとは!
ムーアはそれまで額縁の中の絵以外に美を見たことがなかった。
リーデアは反対に、ムーアの宿のゆるぎない穏やかさに感心していた。古いものは居心地が良い。彼女は新しいものが次々にあらわれる旅にうんざりしていた。歌と曲芸は大好きだったが、流れゆく生活は、たまたま自分が孤児であり、サーカスに拾われたからで、本心の望むところではなかった。物心がついてから、リーデアは一つの場所にとどまりたいとずっと考えていた。計画はいつも同じところで行き詰まった。はたしてどこにとどまれば良いのか?
ここだ、とリーデアはムーアの宿屋に一晩泊まったあと確信した。目を覚ますとベッドは暖かく、自分はまだ夢見心地で、一階の台所で宿の亭主が朝食の準備をしている音がかすかに聞こえた。彼はいつも早起きするのだろう。他には何ひとつ感じられなかった。
彼女は誰よりも早くテーブルについて、ムーアを待っていた。
「あなたの家はとてもすてきだわ、ムーア。そのことが分かっているのかしら?」
「それは俺の決めることじゃないんだよ」彼は言った。
ムーアは信じられないほどゆっくりと動いた。なべつかみを手にはめて、ポットを火からおろし、テーブルまで歩いてきた。彼女のカップに注ぎ口を傾けるとちょうといい熱さのお茶を注いだ。
彼は自分のしていることがひとつひとつ、みんなはっきり分かっているんだわ、とリーデアは感心した。一日の出来事を彼は全て覚えているに違いなかった。ムーアはどんなことでも思い出すことができるだろう。なんて素敵な人なんだろう。
「お客がどう感じるかなんて、俺には決められないさ。うれしいよ。君に喜んでもらえるのは、とてもうれしい」ポットを台所に置きに行きながら、ムーアは言った。
「あたし、宿屋の子どもに生まれたかったわ」リーデアの声は本人すら分からないほど微かにふるえていた。
「宿屋の子どもになるかい?」
ムーアはキッチンに戻ってくると椅子のうしろをゆっくりと回って彼女の背中に立った。かがみこみ、リーデアの耳元に口をよせると、本当にすてきなのは君だよ、とムーアはささいやいた。言葉はリーデアにしみこみ、そして、心は決まった。
これがエイデルの物語のはじまりとなった。
エイデルが生まれた時、ムーアは小さな赤ん坊を、宿屋見習いとしてあたたかく見守っていることには気が付かなかった。ただ自分のつづきになる者が生まれることの神秘さに驚嘆し、リーデアにありがとうと言うほかに、感謝を表すことができなくて、自分に腹が立ったものだ。
エイデルがみんなに愛されるようになったのは、子供の頃から決して叶わない望みを夢見ているからだった。彼が大人になると、あんなに酔っていては、とうていそんなものにはなれっこにない、とみんな分かっていた。かぞえ歌や童謡のように、誰でも理解できるものというのは、それだけで人好きがする。みんなが彼のことを分かっていた。それは素晴らしいことだった。
息子が生まれてからも、ムーアとリーデアは吟遊詩人やサーカス団には優しく接し、彼らの運んでくる物語に耳を傾けた。とりわけムーアは子どもができた時、妻にありがとうとしか言えなかった自分にずっと腹が立っていた。おそらく死ぬまで怒りはとけないだろう。もっと大きなありがとうを言いたかったのに、その言葉を知らず、たとえるにあたいする物語も聞いたことがなかったのだ。
ファンタージェンの者は自分で物語を作ることができない(それができるのは人間の子どもだけである)。ムーアは仕事を愛しつづけ、リーデアを愛し続け、エイデルを愛しつづけた。俺はただたんに愛し続けるために生まれてきたのかも知れない、とムーアは思うのだった。それで俺にはぴったりなのかもな。他に何かしようなんて思っちゃいかんのかも知れん。
俺はちびの宿屋だ。〈頭突きのムーア〉だ。リーデアのようにリュートを奏でたり、バク転をしたらみんな気味悪がって逃げてしまうだろう。これで充分なのさ。
宿屋の仕事は忙しく、世間の親と比べるとムーアとリーデアは息子にかまう時間が少なかった。そのかわり、夜眠る前に夫婦はエイデルにたくさんの物語を話してきかせた。二人が自分の知っている物語を息子に話して聞かせることは、家族がおたがいのすべてを共有する作業になった。三人は物語をともにした。邪悪な魔法使いの呪いを滅ぼした賢者の話。火の中でも平気な、不死身の巫女の話。あしたを映し出す湖をみつけた愚者の話…。
物語を話している人にありがちなことだが、二人は自分たちが何を話しているのか、長いあいだ気付かなかった。エイデルがやがて勇士になりたい、と途方もないことを言い出した時、二人は大変な間違いに気付いた。
ああ、そんなつもりで話してきたんじゃなかったのだよ!
もう、手遅れだった。
どうせなら自分たちのなれそめの話をもっとしてやるべきだった。そうすれば何が息子にぴったりしているか、教えるまでもなかったろう。
けれど二人は今まで話してきたことがみんな嘘だとか、冗談だったとは言えなかった。そんなことをすれば自分たちの人生もからっぽになってしまうではないか。
願うべきことは、エイデルが自分のちからでムーアのように「いつでも自分の背丈にぴったりの衣服のようなもの」を早く見つけることだった。
ムーアもリーデアもそれは宿屋の亭主になることだと分かっていたが、エイデルはまだ分かっていない。若者は物語にあこがれる。いつか自分の物語もそのようになると、根拠の無い望みを抱くものだ。
とんだ回り道をすることになるぞ、と二人は思い、はたして息子が自分のことにはっきり気づくまで無事でいられるだろうかと、それだけを心配した。大人たちが子どもたちに寄り道をするなと忠告をするのは、進んで行く方向に決して良いことばかりが待っているのではないのだと知っているからである。
正しい方向に進んでいるのなら、どんなことも決して無駄になりはしない。
エイデルは村一番の語り部に成長した。青年時代は、昼間仕事がなくてぶらぶらしている泊まり客に話を聞きに行くことができたからだった。夕食のあと、就寝までの穏やかな時間に、エイデルは新しく仕入れた物語を、今度は仕事に疲れた両親に話して聞かせることができた。
旅人はとっておきの物語を持っている。エイデルはそれらをかたっぱしから吸収した。やがて村中の子どもも、大人もエイデルと話したがり、村のほとんどの家族が彼をかわりばんこに夕食に招待するようになった。彼はあっちこっちに顔を出すので、たくさんの家族のエピソードを覚えるようになり、結婚式や大事なパーティには場の引き立て役として必ずひっぱられてくるようになった。
エイデルが飲んだくれになったのは、みんなが彼の口を軽くしようとしたからだった。
村人たちは彼の酒好きを大目に見るばかりか、微笑ましく見守っていた。
エイデルみたいなやつがいるかぎり、村はきっといつまでも平和にちがいない――いつの間にか、みんなはそんな幻想を抱いていた。子どもたちでさえエイデルという男を知ると、彼のことを守ってやれそうだとか、ひとつ骨を折ってやろうという気持ちになり、人生に自信を持つのだった(酒の入っていない彼は絶対に役立たずではなかったし、昼日中は真面目に一滴も飲まなかったにも関わらず)。みんなはエイデルには内緒だけれど、彼のことは守護天使のように思っていた。
彼を守りぬけば、きっと天はわたしたちを守ってくれるだろう――。
彼には因果的な、宿命的なものを感じるのだった。
あんな男を傷つけるやつはいない。もしいるとしたら、悪魔くらいのものだ。
エイデルが唇をぬぐいながら千鳥足で何軒目かの酒場に入っていくのを通りで見かけるたび、同じように顔中真っ赤にして談笑している村人たちはこう言うのだった。
「ご機嫌にやれよ、エイデル!」
エイデルは誰かの言葉が聞こえなかったということはなかった。酔いつぶれて寝ている時でも寝言で「やあ、ヒンメル。そーうさ。俺はこの上なくご機嫌だよ」と答える。
見知らぬ人にあってもにっこり笑う。素知らぬそぶりなどは決して見せず「何かお困りかね?」と声をかける。
今日も彼は背中につっかえ棒でも突っ込まれたかのように背中をしゃんと伸ばし、ぎこちなく後ろ手に手を振ってみせる――。それだけで、声をかけた方はうれしくなってまた言うのだ。
「ご機嫌にな、俺たちのエイデル!」
2
その日は午後からの雨が夕方にあがり、空がオレンジ色に染まっていた。大気は洗われてどこまでも透き通っていた。おかげで光も影も際立って、いつもより遠くの山まで見渡すことができた。旅立ちを告げる使者はその山々よりもなお遠い、涙の湖・ムーフーから足を運んできた。
彼はレイ川を渡り、谷間からあがって、東西きっての語り部が住む村にやってきた。そこは森の中に切り開いた広い居住区だった。使者は誰もわずらわせることがなかった。馬がすっかりくたびれて、いつものように風といっしょになって駆けることができなかったのだ。
夕食でにぎわう家々の明かりが馬の疲れた目に希望の光のように映えていた。
乗り手は酒場を見つけると歩みを止めて馬の背から軽々と飛び降りた。愛馬を軒下にある柵につなぎ、置いてあった水桶に鼻面を優しく導いてやった。
勇士ヒンレックは、自分が使者でもあることを知らなかった。勇士は転機をもたらす者だと気付くまでには、まだ冒険を積み重ねてはいなかった。彼は自分がある男の運命をそっくり変えてしまうとは思ってもみなかった。
カラスの羽のような闇が空の片一方から翼を広げつつあった。酒場の両開きの扉が開いて、この上なく幸せそうな顔の男がよろめきながら現れ出、自分を冒険へ連れて行く使者とばったり会った。相手に酒くさい息をふきかけたくなくて、エイデルは口をおさえて酒場の壁にもたれかかった。
エイデルは目をみはった。物語がはじまるとき、誰もが目をみはるものだ。
使者は銀の都アマルガントでの一件で装備を失っていたが、今は元のように立派ないでたちをしていた。村全体を横目で見渡し、疲れた、穏やかな目つきでエイデルを真っ直ぐにとらえると微笑んだ。
「驚かしてすまない。ちょっときくが、ここは何という村なのかな」
「ラーホー村です。勇士様」とエイデルは言った。酔いがどんどん覚めていった。こんな大事な時はなかった。口から手を離すとまばたきをしてさらに目を大きく開けた。
「ほう」ヒンレックは言った。「勇士と認められるなんてうれしいよ」彼はちょっと自信を失っていたのである。
「俺、エイデルです」
「わたしはヒンレックだ。ひとつ尋ねたいことがあるんだがね、エイデル。最近、おそろしく大きな影を見なかったかね」
エイデルはつばを飲み込んだ。「大きな影ですって? ドラゴンですか、ヒンレック様?」
ヒンレックは目を丸くした。どうしてこの男は分かったのだろう?
「そいつの名はスメーグと言うんだが、」ヒンレックは肩をすくめた。「とんでもない生き物さ。ファンタージェンに生き残っている竜の中ではもっともおそろしい。しっぽはさそり、後ろ足はばったに似ている。前足は赤ん坊の手みたいに寸足らず。首は長くてかたつむりの触覚みたいに出したり引っ込めたりできる。頭は三つある。一つは大きくてワニに似て、口から氷の炎を吐き出すことができる。目にあたるところには頭がひとつずつあって右は男、左は女のあたまさ…。こんな生き物が、ねばねばした羽で空を飛び回っているんだ」ヒンレックは自分がしゃべりすぎたことに気が付いて、急に黙りこんでしまった。
「その竜を滅ぼしに行かれるのですね」
エイデルは静かに言った。彼にはすっかり事情が飲み込めていた。
ヒンレックは驚いた。いったい目の前の男は誰なんだろうと首をひねった。
エイデルは興奮して顔の熱が冷めていた。体中が痺れているようだった。気づかないうちに唇をぬぐった。夢が現実となった時、誰もが死にものぐるいで戦わなければならないことを、エイデルは今や思い知った。
何てことだ! 本物の勇士様がここにおられる。 何てことだ! 想像するだけでも吐き気のする怪物ではないか。何てことだ! これこそ自分の望んでいた物語ではないか。
この男に聞いてスメーグの消息が分からないなら、村の誰に聞いたって見込みはないな、と考えている自分にヒンレックは驚いた。
「エイデル。どこかに宿はないかな。わたしは夜通しでもまたがっていられるのだが、馬を休ませなくてはいけなくてね。その間、わたしも食べて、飲んで、朝まで一眠りしようと思うのだ」
「うちは宿屋なんです」
「本当かね」ヒンレックはもう驚くわけにはいかなかった。彼は勇士なのだ。
3
こうして二人は連れ立って歩いた。エイデルは勇士の馬をひいて、一歩先を案内した。ながっちりになっている村の酔っ払いたちを心配して、家に連れ戻しにやって来た彼らの母親や妻や娘たちが、二人の姿を見て大変なショックを受けた。
たいへん! たいへん! エイデルが勇士を見つけたよ!
ずっと勇士になりたがっていた飲んだくれのエイデル。この町の愛すべき語り部が、自分のすすむべき道を教えてくれる男を見つけてしまったのだ。
この不幸なニュースはその晩のうちに村中の人間に伝えられるだろう。眠っている赤ん坊さえ耳元にささやかれると、もっとお話を聞かせてくれとでも訴えるように泣き出すことだろう。
これからは、わたしたちの物語はいったい誰が話してくれるのだろう?
みんな、エイデルを愛していたから、彼の望むことをとめることはできなかった。
もし叶うものならば、と彼らはエイデルが旅立つ時、天に祈ることになる。エイデルが無事に帰ってきて、わたしたちに物語のつづきを話してくれますように、と。
ラーホー村の住人の願いは天に届いた。エイデルは五体満足で村に帰り、彼とヒンレックを襲ったさまざまな試練を村人たちに死ぬまで話してきかせることができた。村に帰ってきてからは、エイデルの物語を聞きたいというたくさんの旅人が彼の宿屋を訪れた。おかげで彼の物語はふくらむ一方だった。
ある日、白髪の老人になった彼の元へ、赤い目の少女がなぞなぞの勝負を挑みに尋ねてくる。女の子は邪悪な魔法使いの化身だったのだが、彼は窮地の際も飲んだくれながら切り抜けて、三つのなぞを解き、反対にたいへん難しいなぞを出して彼女を打ち負かすことに成功する。
けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。
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