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神戸日記
 プライベートのことは書きません。ちょっとした覚え書きです。

短編小説
 SF、ファンタジー、ホラー、現代小説。

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プロフィール
 神戸に住んでいる男性です。映画と図書館と甲本ヒロトさんの歌が大好きです。

幽霊物語

原稿用紙:12枚

   1

 朝、目覚めてベッドの中で起き上がり、片手でカーテンを開けると、窓から明るい陽の光が射しこんだ。昨日と同じように、飼い犬のダックスフントのビビが私の胸に飛び乗ってきて、思わず涙がこぼれそうになった。というのも、ビビは昨日、車にひかれて死んだのだ。
 家の戸締りをしっかりしていなかった私が悪かったのだ。
 彼女は、近所の自動販売機に煙草を買いに出かけた私のあとを追ってきた。玄関のドアノブに飛びついて前足で押し開け、外に駆け出すような、賢くてすばしっこい犬だった。私の枯れ枝のような細い足を見つけるやいなや、自分の冷たい鼻をぶっつけて、折り目のついたズボンをくしゃくしゃにすることしか考えていなかったろう。
 ビビは道路に飛び出して、私よりも歳のいった婦人が運転する乗用車にひかれて死んだ。
 短い警笛のような悲鳴のあとに急ブレーキの音が重なり、私の心臓は突き上げられた。
 血だらけのビビを両腕に抱いて、家に逃げ込む時、私の心は自責の念で死にかけていた。
 自宅の庭にビビの墓を作ったあとは、飲めない酒をしこたま飲んだ。私は上下の服の裾を泥で汚したまま、ベッドに倒れこんだ。
 次の日、私はまた戸締りをおろそかにして、煙草を買いに出かけ、ビビが、勢いこんであとを追ってきた。
 私は地獄にいるのだと思った。当然の報いだと考えた。
 家に戻ると、再び、血だらけの飼い犬を葬るために、シャベルで穴を掘り出した。
 私は離れた所から自分を見守っているようだった。自分のことを冷静に観察し、ビビを哀れに思っていた。
 その次の日、私は何が起きているのかはっきりと分かった。わたしとビビは、さらに時間をさかのぼったのだ。

 ベッドの中で体を起こし、カーテンを開ける。その日は曇っていて、日の光は射し込まなかった。ビビが寒がって、ストーブの周りを回ったり座ったりしていた。彼女の、暖かい炎をせがんで、けたたましく鳴いている声で私は目覚めたのだ。
 苦笑いをうかべながら呻き、ベッドからすべり降りるとストーブをつけながら、これは以前起こったことだ。やったことだ、という実感がつのってきた。
 ビビが死ぬのは明日だ。
 ここは過去だ。
 炎が次第に大きくなるのを見つめながら、私はそのことをじっくり考えてみた。
 ビビがわたしのそばにすわり、私の手は彼女の明るい茶色の毛並み(血だらけではない)をゆっくりなでていた。
 結論、というより、たどりついた感想は、「悪くはない」だった。
 一日ずつ、時間が戻っていく。
 はじめはそう思った。
 私は、何が起こるのかを見極めようとした。
 時の流れに終わりがきたのだった。
 人類全体、惑星全体、宇宙そのものが、過去にむかって動き出していた。


     2
 
 私たちが今、地球と呼んでいるものは、人類にとって生存に適した第五六番目の星だ。
 現在では考えにくいことだが、第一番目の地球が滅びる時は、あえて地表に残った人々がいた。最初の地球は死を前にしてもゆるがない、強い執着心で愛されていたのである。
 百億年の寿命を迎え、赤色巨星と化した太陽は膨れ上がり、自分の系の星々をほとんど飲み込んだ。やがて収縮をはじめ、核を残して消滅した。
 ひとつの太陽系は、巨大隕石の衝突が迫るか、太陽が寿命をむかえるまで、人類はどの時期も大切に扱ってきた。天文学的視野で宇宙を考えることを要求された人類は、自分たちが生きていける星を見つけたり、あるいは住みやすい環境に変えるための、惑星改造という大事業に、すっかりおののいてしまったのだと言える。
 最初の地球を離れてからは、人類の主要課題は太陽系の発見になった。
 ひとたび天文学的な問題を抱え込んでからは、「次に太陽が寿命をむかえるのは六十億年後だから、今生きている自分には関係のないことだ」などと、無神経ではいられなくなったのである。
 自分の生活と子孫たち、芸術と科学が、いつか滅びてしまうと知っていながら、希望を持つことはまるで不可能なことだからだ。

 五六回もの惑星移住。人類が行き着いたのは、時間の果てだった。
 新しい太陽との出会いと別れを繰り返し、種の存続を永らえてきた我々だが、この宇宙は有限だった。
 今や空間は外に向かって膨張することをやめ、それまでと同じ光のスピードで、収縮をはじめた。空間と時間は表裏一体のものである。それゆえ、時間も並足をそろえはじめた。
 宇宙は小さくなり、時間の単位は短くなるだろう。
 変化はまだ緩やかなのだろう。ほぼ一日ごとに…ある時は一ヶ月も…これまででは最大で、三年も戻ったことがある。
 戻って、進み、また戻る。
 宇宙が全体のバランスを崩して、修復不可能な事態に陥ることのないよう、自ら最適なタイミングをはかっているように思える。
 私の気が狂っていない証拠がある。みんながその気になれば、戻った過去で、自由に振るまえるのだ。

 孫が生まれたことを喜び勇んで知らせようと、冬の真夜中に私の家に向かって走ってくる友人のことを、私は覚えていた。
 彼は心臓発作で倒れるのだ。翌朝、凍てついて、アスファルトの地面に顔がくっついているところを発見されるのだが、引き剥がすのにひどく面倒を起こしたものだ。
 宇宙がその日に戻ったのが分かると、私はコートとブーツ、手袋を用意して、寒さから身体を守り、道の途中まで出かけて行って、彼を待ち受けた。
 やがて、友人は汗びっしょりでやって来た。
 私は建物の影から姿を現した。
「君に孫が生まれたことは知ってるよ」と、幾分得意げに言った。
「自分が死ぬことぐらい分かっているさ、ばかたれ」彼はその場で腕を振り、膝をあげつつ言った。綿のような白い息が絶え間なく吐き出された。
「今日はな、わしに初孫が生まれた日なんだぞ」
 友人は私の肩を思い切りたたいた。
「これが走らずにいられるものか。心配するな。明日は昨日になるんだ。また会えるわい」
 そうして彼は走って行き、私の目の前で息をつまらせて死んでしまった。


     3

 過去へ、過去へと進んでいるのだから、何をしようと未来に影響が及ぶはずもない。だがたいていの人は、そのままの過去をなぞることを楽しんでいる。
 生きているビビとの日々を、私は心ゆくまで楽しんでいる。過去をこうしてなぞることは、彼女の身に起こった恐ろしい出来事をやわらげる。
 先に話した友人と、過去がどんな具合に見えるのかと話し合う。
 大切な、かけがえのないことを煮詰めている。そんな気がする。私たちは心ゆくまで話し合い、たいていは笑顔で話すことができる。
 それは幸せなことだと思う。
 人は未来と同じく、過去を大切にする。思い出が輝く時がある。憎んだり、恐れたり、「もしも」と期待することが、時には未来に対する想いよりも強くなる。
 最初の地球にいたプーシキンという詩人は書いている。「流れ去るものはやがてなつかしいものとなる」
 私たちは幽霊になったのだ。それが友人と私の見解の一致するところだ。もはや生きてはいないが、かと言って、死んだわけでもない。
 辛いことも恐ろしいことも、ちょっと離れて眺めることができる。
 私は飼い犬との生活に戻ったことを、心から嬉しく思っている。嬉しく思えることを、感謝せずにはいられない。
 過去に戻ることを忌まわしく思う人たちもいるだろう。それでも振り返り、誰かに語ることができるのなら、人は乗り越えていけるのではないだろうか。

 あと一年ほど時間が戻ったら、長年連れ添った妻がよみがえることだろう。死の間際の闘病生活の思い出を乗り切れば、楽しかった日々が生き生きとよみがえってくるだろう。あたたかいキスを、もう一度交わすことができるのだ。
 憎らしかった子供たちが、また、愛くるしい少年少女に戻る。あの頃は、と振り返ることはない。その時に戻り、そのままを話し合うようになるだろう。
 私はやがて、独身生活を再び体験するようになるだろう。学生にもどり、死んだ両親に再会し、甘えることも、言いたいことを言うこともできるだろう。

 そのあとは?

 どうなるか、私には分からない。赤ん坊になり、母の胎内に戻っても、このことを覚えていられるだろうか。
 私の夢は、こうだ。人類を追いかけたい。どこまでも。行き着くところまで。
 我々が何をしてきたのか。どんな人が何をしてきたのか。
 最初の地球へ戻り、太陽が爆発するのに、地上を愛して居残ることを選んだ先祖たちを見てみたい。
 最初の太陽の恵みを受け、そこで育ち、良くも悪くも、いちばん順当な歴史を生きた人たちを眺めてみたい。
 願わくば、もっともっと戻り、宇宙の始まりを見てみたい。
 そこまで戻れば、宇宙はまた、始まるのではないだろうか?
 もし、宇宙のはじまりを見ることができるのなら、私はまた自分の人生を生きる勇気を、持つことができると思う。
 そして再びあなたと出会えたなら、この幽霊物語を語り合おうではないか。



※文中の「流れ去るものはやがてなつかしいものとなる」は、
『筑摩世界文學大系88』の金子幸彦訳(筑摩書房)を引用しました。

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