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悪魔の原稿
原稿用紙:11枚
山田集一はコタツに入っていた。右手に鉛筆を握り、左手は原稿用紙を押さえている。
「無理だ」
彼は呟くと鉛筆を両手で折ってしまった。
「短編なんか書ける訳がないじゃないか…僕は長編作家なんだ。自分に才能が無いのも良く分かってる。無理だ、不可能だ。何もかもエージェントのせいだ。僕がこんなに苦しむのは、決して自分のせいじゃないぞ」
それでも折れてしまった鉛筆を握り直し、彼は原稿用紙に鋭角を近づけていった。だが紙からは〈書けない〉というマイナスの磁力が働いているかのようだった。彼は腕を引っこめざるを得なかった。
集一は目を前にチラリと向けた。テレビの上の掛け時計は午前十一時半を告げている。「もう十二時だ!
あと三十分で書けたら僕は天才だ」
腰元に寄せてあった電話が鳴った。集一は投げやりな気持ちで受話器をとった。
「はい、ああ及川さん。もう駅に着かれましたか。はあ。そうですか。なるべく、ゆっくり来て下さいね、いいえ、こっちの話です、それじゃあとで」
集一は電話を切った。鉛筆をみんなボキボキと折ってしまった。自分のしたことに胸がむかついた。砕いたものをそっと寄せ集めるとゴミ箱に持っていって、涙ぐみながら捨ててしまった。
電話が鳴った。「くそ!」と叫ぶと集一は受話器をとって怒鳴った。
「山田、です!」
明るい声が耳元で広がった。
「お困りのあなたに吉報です!
たった五分であなたの短編小説を完成させて御覧に入れましょう!」
それは女の声だった。聞いたこともない声だ。
「あんた誰です」
機嫌のわるい集一はムッとして言い返した。相手は態度を変えなかった。
「悪魔です!
一度、わたしと話をしたかったのでしょう、集一さん。あなたの『死の起源』、読みましたよ
いきなり真っ白な閃光が彼の目の前で発生した。目を開けると、煙の中に若い女が立っていた。
「お困りでしょう、助けてあげますよ!」
両手を伸ばして女は言った。よく見ると赤茶けて豊かな髪の中に黄色っぽい角があり、耳のそばから垂直に立っている。
彼女は全身にピッタリした真っ赤なラヴァースーツを身につけていた。自分の胸の大きさを誇るように、悪魔は背中を反らしてもったいぶったウィンクをした。
エージェントの松井なら喜ぶだろうが、集一は違った。彼は悪魔という存在のことなら本で読んでよく知っていたからだ。それに、彼は朴念仁だった。
「ふざけるな!
短編小説一つで魂を売ってたまるもんか、失せろっ!」実際、彼はそう怒鳴っていた。
「山田集一さん。あなたが責任感の強い作家だということを、わたしたちはよく存じあげております」
「不法侵入者の君に命令する、出て行けっ!」
「才能よりも信用でしょう?
わたしが出て行ったらどうするのかしら?
ねえ、どうするのかしら…」
「来るな、触るな!」
「恥ずかしがり屋なのね。良ければもっと肉感的な女性になっちゃおうかしら。論より証拠。どうぞ、これを」
女が掌を上にして差し出すと原稿の束が出現した。彼は鉛筆書きのその束の上にある題名を見て、思わずひったくっていた。
「貴様!
なんだこれは?
『怒りの虹』だと?」
彼の視線はコタツの上にある一枚の原稿に向けられた。
そこには〈怒りの虹〉があった。集一は悪魔のくれた原稿と、自分が題名しか描けなかった一枚とを見比べた。二つは同一の筆跡だった。
悪魔は彼の後ろからのぞき込んで耳元にささやいた。
「あなたの魂をコピーさせてもらったのよ。そこにあるのは、〈あなた〉そのものが描いた作品。読んでみたら分かるわ。〈あなた〉自身だってことが」
言われるまでもなく集一は話の筋を追っていた。文体も人物も、表現の仕方までが彼のものだった。
「盗んだな!
そうか、だから…」集一はわなわなと震えた。
「もちろん、悪魔ですもの。あなたが書けなかった理由がこれで良く分かったでしょう?
あなたは本当はちゃんと書いていたのよ。あたしが横取りしちゃっただけなの」
集一は拳骨を振り回して飛びかかった。悪魔が手を一振りすると真っ黒な鎖が幾筋も現れ、彼を覆った。気が付くと集一は畳の上に打ちつけられて、とりこにされてしまっていた。
インターホンが鳴った。
「あら、きっと及川さんよ。それじゃあたし、原稿を届けてくるから」
床の上の集一は声を張り上げようとした。悪魔が指を突きつけると口にガムテープがピッタリ貼り付いていた。
みじめな作家の耳に、担当と悪魔の会話だけが聞こえてきた───
「おや!
あなたは?
山田さんは?」
「疲れて眠っていますの。はい、これが原稿ですわ」
「二、四、六、八…確かに三十枚。すみませんが、中に入って読みたいんですがねえ」
「あら、その必要はありませんわ」
集一は玄関の方で光が放たれるのを見た。
「これはなかなか面白い!
きっと受けますよ。それじゃ、わたしはこれで帰ります。山田先生によろしく!」
「いいえ」
「は?」
「山田大先生ですわ」
及川の笑い声が薄情にも遠去かって行く。
悪魔は戻ってきた。
「これで契約は成立したわ。あなたの魂はわたしのもの」もう一度指さすと集一はすっかり自由になった。
「こんなひどい取引なんてあるもんか!」彼は大声で叫んだ。
「それじゃ勝負しましょう。昔から決まっているのよ。悪魔と人間の戦いは、つまりこういうことなの。人間の魂は、最初から悪魔のもので、たまにある人物だけが取り戻す権利を生み出すってこと。山田集一さん、あなたみたいな昔気質の三流作家にそれが出来るとお思い?」
「やらないでおけると思うか」彼は目をすえた。
「もし、あたしと契約を続ければ、あなたはそこにいながらにして作品を生み出せるとしても?
オマケにあたしがずっとそばにいてあげても駄目かしら?
毎日色んな女性になったげるわ。わたしの心は、あなたのものよ」
言うなり、悪魔は一糸まとわぬ姿になった。
「僕は勝負する。悪魔め、作家の原稿を盗むことが、どんなに罪深いことか思い知らせてやる!」
彼は目をつぶって言っていた。
「今のあなたには魂がないってことを忘れないでね」
「僕は人間としてお前に勝負をいどむのだ!」
「いいでしょう。でも、あたしが〈親〉よ。ルールはあたしが決めるわ。あなたは質問するだけ。そうね、大目に見てあげる。三回まで自由に質問しなさい。そのあとで〈絶対に答えられない〉質問をするの。あたしが答えられない時は、あなたの勝ちよ」
「ではさっそくやってやる…お前は全ての言語を理解するか?」
「くっだらない質問」
悪魔は穏やかな波の打ち寄せる海辺に、サングラスをかけて横になっていた。ビキニ姿の彼女は口元にワイングラスを運びながら、第一の質問に答えた。
「人間の言葉に限んないわ。何百万年かしたあと、魚が陸を歩いてるけれど、そいつらの言葉だって分かるんだから。過去でも未来でもね。でもあんたがそんなに言語通だとは知らなかったわ」
「皮肉を言うな。…では二つ目。質問はナゾナゾでも、紙に書かれたどのような知識でも可能なのか?」
「ふざけてるの?」
悪魔はテーブルの上のグラスを払った。グラスは壁にふっ飛んで行って砕けた。彼女はドレスを着、口には煙草をくわえている。後ろの方でジューク・ボックスがジャズを鳴らし、カウンターの奥でバーテンが何事かとシェイクを止めて目をむいている。悪魔は両手をテーブルに叩きつけて向かい側の席に座っている集一に迫った。
「あたしは全知全能よ!」
「だが、心までは分かるまい?」
集一はニヤついた。
「それで質問は終わりよ!
〈心〉ね…それはそうだけれど、でも…」
「では、お前に質問する」
悪魔の目に初めて恐れが浮かんだ。集一は自分のグラスを手に取ると傾けて飲んだ。うっすら片目を開けると横を向いて、聞こえないような小声で言った。
「答えるな」
悪魔のアゴががくんと落ちた。
空間がぐんにゃりとよじれた。悪魔は震えながら立ち上がった。背を向けると、彼女は一目散に走り出した。
どこまでもどこまでも走り続け、やがて小さな点になると悪魔は消えた。おかしな空間も、真っ白な光を放って消えてしまった。
軽やかな笑い声を立てて、集一は伸びをした。
「よし、僕は書くぞ!」
彼はコタツにもぐりこもうと、振り返った。
今度は、集一のアゴががくんと落ちた。彼は目をしばたいた。
天井の高さにまでそびえる原稿の山が、部屋を占領していた。一枚、二枚、ヒラヒラと舞い落ちてくる。
彼はその題名を、文体を見、次々に部屋を渡り歩いた。トイレも風呂桶も、キッチンの流しも原稿の山だった。
「これも!
これも!」
集一はページをめくりながら歓喜に満ちて叫んだ。
「僕の原稿だ! 僕の原稿だ!」
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