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勇者アルシオンの物語
原稿用紙:37枚
1
安西良彦さんは自分が科学者に生まれついたことを感謝していました。思いもよらないことが毎日のように起こるからです。科学者には、世界の成り立ちや仕組みを考える人と、誰も知らないものを発見したり、新しいものを発明する人がいます。安西さんは後者でした。それでも自分が、娘のためにお話を作ることができるとは、思いもしないことでした。
子供には物語が必要です。自分で、自分の子供のためになるようなお話を作り出すことができるなら、どんなにいいだろうと親なら一度は思ったことがあるに違いありません。誰かのことを考えながら新しい料理に手を染めるのと同じように、安西さんの、好奇心と挑戦したいという望みが、その日自分の頭の中で思いもかけないものを発見することになり、最後には物語を発明することにつながったのでした。
紅葉が終わる時節でした。安西さんは娘のピアノの発表会に出かけていました。彼の奥さんは大学の講師でした。毎年恒例の講演会の主催者として出席するために、その日冴子さんは娘の晴れ舞台を鑑賞することはできませんでした。
「お母さんはこられなかったけど、それで良かったのよ」発表会が終わったあとでした。安西さんが車のエンジンをかけると、後部座席から、有希の鼻声が聞こえました。
コンサートホールの駐車場にとめてあった車を出してしまうと、父親はバックミラーをのぞいてみましたが、そこには娘の姿はうつっていませんでした。
道路に乗り出し、赤信号にひっかかると安西さんは後部座席をのぞきこみました。ステージ用のドレスが入ったバッグを胸の上に抱え、娘の有希は涙がうるんだ目で天井を見ていました。彼女は座席に仰向けになって寝ていました。その日の演奏中に一度、有希は失敗をしたのです。一度失敗すると、けつまずいた人がバランスを崩すまいと宙をもがいて、とうとうぶざまに倒れ込んでしまうように、有希は…ひどい音を出しました。それは数秒の出来事でした。安西さんは運転をしているこの時も有希を誇りに思っていました。彼女はためらわずに続きをひき、最後までやりとおしたからです。残りの数分間は立派な演奏でした。もっとひどいことになった子供がいましたが、そのことを指摘してもその子をけなす言葉が親子の間に横たわり、会話の雰囲気を自分の都合のいい方に持っていこうとするために使われる侮辱がいかに冷たいものかをとっくりと眺めるだけになるでしょう。
(有希を誇りに思っていることを、どうしたら彼女に伝えられるだろう)
安西さんはひらめきました。
「有希、知っているかい。勇者アルシオンの物語を」気が付くと、父親は言っていました。
「ううん」有希が鼻をかむ音がしました。信号が変わり、安西さんは流れにのせて車を出しました。
太陽の向きがかわり、オレンジ色の日差しが斜めに車内をよこぎりました。道路に突き出している公園の木々から、鮮やかな落ち葉が公道に、絶えることのない滝の流れのように降りかかっており、親子はそこを突っ切りました。様々な色がひるがえって踊りました。美しい自然の風景を大切な人と過ごすのはもっとも長生きする思い出の一つだ、と安西さんは思いました。
「アルシオンって誰のこと?」まだ鼻声でしたが、有希が起きあがり、バックミラーの中に姿がうつりました。そうやって真っ直ぐに座っているのを見ているだけで、安西さんは娘のことが誇らしくなるのです。
渋滞につかまり、家に帰るまで一時間かかりました。その間に、安西さんはアルシオンのことを話すことができました。どこから彼の名前を思いついたものか、判然としません。彼の身に起こったことについてもです。ただ、安西さん本人だけでなく有希も、父親が、娘のためにつくりだした物語ということははっきり分かっていました。有希は平静さを取り戻し、家に帰り着くと父親のコートをひっぱり、アルシオンのことを童話にしてみせてよ、とねだりました。もちろん父親は娘の願いを叶えました。このようにして、科学が人類全体のものであるように、物語も作り手から離れる必要があることを安西さんは知ったのでした。
2
「勇者アルシオンの物語」 安西良彦
アルシオンは十人兄弟の末っ子の男の子でした。兄弟の中ではいちばんおとなしく、何をやっても失敗ばかりしていました。上の九人の兄弟が立派な騎士になり、みんな戦争に行ってしまってからも、いっこうに剣術を習おうとしません。馬にさえ乗る気がなく、ただ話しかけて友達になろうとするだけでした。騎士団長だったアルシオンの父親はある日、息子をお城の自分の部屋に呼びつけました。アルシオンは普段はずっと、母親の世話をしていたのです。彼の行き先は、いつもは市場や雑貨屋でした。国中のどんな所でもよく知っているアルシオンでしたが、お城に来るのは初めてのことでした。
「お前はいったい、将来何になるつもりなのだ」父親は言いました。「おまえは何をやっても、失敗ばかりしているそうではないか」
「そんなことはありません」アルシオンは言いました。「確かに私は馬に乗れません。剣も槍も使えません。でも、お母さんが教えてくれたことなら、私は何でもできます。料理や洗濯、繕い物だって上手なんですよ」
「お前は男の子だ」父親は目を閉じて静かに息を吐きました。「お母さんを愛しているなら、守ってやらなくてはならない。お前の兄弟も、もう半分が死んでしまった。国中の騎士が、今も隣国と戦って死んでいる。まだ生きている者も死んだ者も、お前の兄たちはみんな立派だし、立派だった。弟のお前になぜそれができないことがあろう。お前は、このわしの息子なのだから」
「私は戦いたくありません」アルシオンは言いました。「でも、何かにならなければならないと思っています。立派な、何かにならなければならないことは、分かっています」
立派な騎士になることだな、と父親は言って、息子を帰らせました。
アルシオンは帰る途中、城の中庭で王女を見かけました。
王女は噴水の前にひざまずき、国のために、太陽にむかって祈っていました。騎士の息子たちなら誰でもそうなるように、彼は一目で恋におちました。
それでも、何の手柄も立てていない者が、王族に近づけるわけがありません。アルシオンは自分で言ったとおり、母親から教わったことなら何でも上手にこなすことができました。父親の言葉が彼の心によみがえりました。「お前は男の子だ」と。「愛しているなら、守ってやらなくてはならない」
お城を出て、母親の待つ家に帰るまでの道すがら、彼はたくさんのことを考えていました。それは、王女に恋をしていたからかも知れません。あるいは、父親に何になるつもりなのか、と聞かれたせいなのかも知れません。隣国との戦いで死んだ兄弟のことも考えました。母親と王女を守りたい。どうしたらそれができるだろう。彼は考えました。本当に、どうしたら守ることができるだろう。
その晩、彼は自分がなりたいと思う者のことを考えぬきました。母親にあてて、すぐに戻るから心配しないでほしいと書き置きを残すと、アルシオンは森へ行ってしまいました。簡単な剣と鎧だけを持って。森には、不思議な力をもった魔女が住んでいるのです。彼女を滅ぼすつもりでした。誰もが魔女のことを知り、恐れていましたが、戦う者はいませんでした。死ぬよりも恐ろしいことになると言われていたからです。
アルシオンは、自分が立派な騎士であることを証明するつもりでした。
次の日の夕暮れ時に、アルシオンは森の入り口にたどりつきました。
不意に、誰かがアルシオンに声をかけてきました。
足下を探してみると、誰かが小さな声で言っていました。
「騎士がきたわ。子供みたいな、騎士がきた」と。
キツネが茂みの中から用心深く、頭だけを出して呟いていたのです。
「お前を襲ったりはしないから、安心しなさい」アルシオンは言いました。「私は、ここに住んでいる魔女を探しにきたんだ」
「それならお前さん」キツネは鼻面を持ち上げました。「あのブドウをとってくれたなら、魔女の家を教えてあげますよ」
アルシオンの頭の上の樹の枝に、山ブドウが垂れ下がっていました。彼は樹によじのぼり、ブドウをちぎってキツネに落としてやりました。キツネはブドウをくわえると、一目散に走り去ってしまいました。
「おそろしくって、魔女の家なんか教えられませんよ」去り際に、キツネがそう言うのが聞こえました。
アルシオンが樹から降りて、もっと森の奥へと進んでいくと、今度はウサギに出会いました。
ウサギは猟師が仕掛けた罠にかかって、逃れられずに泣いていました。アルシオンはウサギが足を痛めているのを見て気の毒になりました。騎士の姿を見ると、ウサギは目を見開き、逃げようとしました。罠が自分の足に食い込み、ウサギは涙をこぼして叫びました。「騎士だ! 助けて、私を食べないで!」
「私はお前を食べたりしないよ」本当は、アルシオンはひどくおなかが空いていましたが、ウサギが哀れに思えたので逃がしてやることにしました。「私は、魔女の家を探しにきただけなんだ」
「それならお前さん」ウサギは耳を震わせました。「この罠をといてくれたら、私が魔女の家を教えてあげますよ」
アルシオンは言われたとおり、ウサギを自由にしてやりました。罠から解放されたウサギはアルシオンをしばらく見上げていましたが、あっという間に茂みに飛び込むと、もう戻ってはきませんでした。
「おそろしくって、魔女の家なんか教えられませんよ」去り際に、ウサギがそう言うのが聞こえました。
アルシオンがさらに森の奥へと進むと、オオカミの遠吠えが聞こえてきました。彼は剣を引き抜き、声のする方へ近づいていきました。
やがて目の前に、オオカミの姿が見えてきました。アルシオンが近づいてくる気配に気が付き、相手は吠えるのをやめました。それどころか、オオカミはアルシオンから遠ざかろうとさえしました。アルシオンがなおも迫ってくるのが分かると、オオカミは反対ににじりよってきました。その足は傷ついていました。
「どうして、お前はここへ来た」オオカミは言いました。「わしの恐ろしい声が聞こえなかったのか」首のまわりの毛が逆立ち、真っ赤な目が薄暗い森の中で燃えて、真っ直ぐにアルシオンを見つめていました。
「もちろん聞こえたとも。だから私はここへ来たんだ」アルシオンは言いました。
「分別がないのかね」オオカミは真っ赤な口を開けてうなりました。「騎士といえども、あえて危険に飛び込むなんて、どうかしているのじゃないのかね」
「私は騎士になりたい。まだ騎士ではないんだ」アルシオンは言いました。
「私は母親に育てられたのだよ。あまりにもたくさんの戦いがあって、たくさんの家族の騎士たちが死んだために、私の父親は自分の末っ子の面倒を見る暇なんてなかったのだ。
「私はみんなを脅かす戦争や、おそろしいものが、どんなに悲しいことを引き起こすのか、よく知っている。私の母は子供たちが死ぬたびに、たくさんの涙を流すのだよ。信じられないほどたくさん…何度も、何度も。お前はオオカミだ。私は騎士の息子だから、お前の牙と爪がみんなに害を及ぼす前に、それらを滅ばさなくてはならない。お前がどんなにおそろしくてもだ。私は戦って、そして帰らなければならないんだ」
「戦ったことがない騎士か」オオカミはうなりました。アルシオンは真っ青になっていましたが、剣をしっかり持ち、この戦いに心を集中していました。
アルシオンは父親が言うように、確かに失敗ばかりしていました。けれど死んでしまった兄弟たちも、今も戦いつづけている者たちも、弟はいつかきっと立派な者になると信じていました。なぜなら、彼は失敗して、どんなに辛い目にあおうとも、決してあとへは引かなかったからです。
アルシオンが一歩、前に出ました。オオカミはうなるのをやめました。
それから、オオカミは不意に茂みの中へ駆け出しました。アルシオンはとっさにあとを追いかけましたが、相手がびっこをひいているのを見て、立ち止まりました。ある疑惑が、彼の心に生まれました。
オオカミが戻ってこないのを知ると、アルシオンはへとへとになって地面に腰をおろしました。
森に入ると、昼も夜も区別がつかなくなることがあります。アルシオンはオオカミと別れたあとも歩き続けていましたが、何日か過ぎると食べ物がなくなってしまいました。彼が小川を見つけて喉のかわきをうるおしていると、背後に人の気配を感じました。
振り向くと、小さな女の子がアルシオンを見つめていました。
「遊んで」彼女は言いました。アルシオンは首をかしげて、この子がひょっとしたら、魔女かも知れない、と思いました。剣にそっと手をのせました。
「君は誰だい。こんな森の奥に住んでいるの。お父さんとお母さんはどこにいるの」アルシオンは言いました。
「遊んで」女の子は言いました。「剣は危ないから置いてってよ。あたしと追いかけっこをするのよ。鎧は重たいから脱いでって。じゃないと、あたし、遊ばないから」
アルシオンに口をきかせるゆとりを与えずに、女の子は彼の周りを走りながら、早口で言いました。
「あなたがキツネと話すのを聞いていたわ。魔女の家を探しているんでしょう。
「あなたがウサギを助けたのを知ってるわ。魔女の家を探しているんでしょう。
「あなたがオオカミと戦うのを見ていたわ。魔女の家を探しているんでしょう。
「さあ、あたしを捕まえてごらんなさいな。魔女の家を探しているんでしょう。
「あなたがあたしより速く走れるのならば、きっと魔女の家を見つけてあげる。
「約束よ」
女の子の言葉を聞き、自分の周りを走り回る彼女の姿を追っているうちに、アルシオンは周りの景色が大変な速さで動いているのを見ました。めまいがしたかと思うと、自分の手足が勝手に動きだしました。彼は剣をはずし、鎧をぬぎすて、下着一枚で走り出したのです。
少女はアルシオンの前を飛ぶように走っていきます。アルシオンはあえぎながら走りました。まわりの風景が大きな音を立てて飛び去っていきます。体中の筋肉が、ぞうきんのように絞られているような感じがします。彼は木々の枝に体中をひっかかれました。女の子の姿が見えなくなり、まったくの闇の中を走っていく時は地獄の中に飛び込んでいくような気持ちになり、アルシオンは死んだ兄弟たちの白い顔が暗闇に浮かび、彼らが自分の名前を叫ぶのではないかと思いました。もしその声を聴いたら、自分は気が狂ってしまうだろうと思いました。闇を通り抜け、昼と夜の区別がつかない灰色の風景の中にもどった時には、アルシオンは息がすっかりきれていました。それでも彼は走り続けました。どこまでも。少女が行き着くところまで。
アルシオンは唐突に、すべての糸を切断された操り人形のように解放されて、地面に放り出されました。手足は燃えている丸太のようです。少し動かそうとしただけで、鋭く痛みが突き刺さります。無数の星が目の前に飛び散りました。聞いたこともないほど恐ろしげな、しわがれた声が聞こえました。
「こんなに若い人間がくるのは初めてだねえ。よくやったねえ、あたしの可愛い、可愛いミーシャ」
アルシオンが地面に両手をつき、どうにか体を起こしてあえぎながら見上げると、やせた老婆が彼をしげしげと見つめていました。彼女のうしろには、さきほどの少女が隠れていました。
少女は、アルシオンがキツネのためにとった山ブドウを片手にぶら下げていました。罠にかかったウサギが痛めていた足の傷と同じものが、少女の裸の足にあることにアルシオンは気が付きました。その傷は、オオカミの足にもあったのです。傷はほとんど治っていました。
(どうして私は、この魔女の娘に三度も出会ったのだろう)アルシオンは少女を見つめました。少女もアルシオンを見つめていました。
「あなたを探していました。私は、アルシオンといいます」騎士の息子は、魔女にむかって言いました。
「名前なんてどうだっていいさね。お前はこれから、わたしのしもべになってもらうよ。死ぬまで働いてもらうんだ。抵抗しようったって無駄だよ。ミーシャがお前から剣も鎧もとってしまったからね。あたしに殺されたくなかったら、せいぜいあたしの機嫌をそこねるようなことはしないがいいやね。まあ、注意するこった」
魔女は話すのをやめました。娘のミーシャが、耳元で何かをささやいたからです。
「なんだって…。お前にそのブドウをとってくれたっていうのかい…」魔女は驚き、がっかりしたように言いました。「そうかい。この子にブドウをとってくれたんなら…こきつかう前に、お礼をしなけりゃならないね」
魔女が手をひとふりすると、大理石でできたテーブルが地面の上にあらわれ、湯気を立てているステーキと、焼きたてのパン、果物とワインがその上にのっていました。
「アルシオンとか言ったね…。これが最期の食事だと思って、まあせいぜい味わうこったね…」魔女はほんの少しでしたが、アルシオンを見くびるのをやめたようでした。
「ありがとうございます」アルシオンは心底くたびれきっていましたので、正直にお礼を言って、食卓につき、胃袋にたらふくつめこみました。
アルシオンのおなかがいっぱいになると、魔女は人差し指を立てて言いました。
「さあこれで借りは返した。とっとと働いてもらうよ」
「私に出来ることなら何でもしますよ」アルシオンは元気いっぱいに答えました。彼が少女を見ると、彼女も騎士を見つめかえし、二人は微笑みました。
実際、アルシオンは働き者でした。料理も洗濯も縫い物だって得意だったのです。それに、ミーシャの遊び相手にもなりました。彼はいろんなゲームを知っていました。決して、頭の悪い人間ではなかったのです。
魔女もこれだけの働き手を、ただこき使って死なせてしまうのはおしいと思ったのか、アルシオンには何でも言うことを聞かせるかわりに、食事だけはきちんと与えるようにしていました。
そうして、一年が過ぎた頃、アルシオンは思い切って魔女に言いました。
「私は願い事があってこの森にやってきたんです。私は立派な騎士になりたいんです」
魔女はおなかをかかえて笑いました。
「おまえのような者が立派な騎士になりたいだなんて、馬鹿なことを言うんじゃないよ。お前は、あたしらの世話をしていたらいいんだ!」そう言ってから、魔女は肩をすくめました。今では、自分がどれだけアルシオンを頼りにしているのかを、急に悟ってしまったからでした。アルシオンが森を離れたら、誰が自分たちの世話を見てくれるのか。それを考えると、急に心細くなったのでした。
魔女は、とても強い力を持っていました。一度に数え切れないほどの人間のいのちを奪うことも、きっとできたでしょう。彼女自身もそうしたい気持ちをいつでも持っています。ただ、力というものは使えば使うだけ、威厳をなくすものです。簡単に、いつでも、気ままに使っていれば、最期には無くなります。もし力を使うのであれば、それなりの理由が必要です。どんな理由でも構わないのですが、力が欲しがっている威厳というものを、たっぷりと含んでいるような理由がどうしてもいるのです。たきぎが無ければ火が燃え続けず、やみくもに風を送って燃え立たせようとすれば消えてしまうのと似ています。軽い出来心などで力を使おうとすれば、それは魔女を滅ぼしてしまうことになるでしょう。力は魔女のものですが、同時に魔女は、力にしばりつけられていました。何かが欲しいと強く望むことは、自分をそれにしばりつけることです。ひとりぼっちの魔女が力をのぞみ、そうなったように。アルシオンが立派な騎士になることを望んでいるように。国王が玉座を守ろうとするのと同じように。
(私がアルシオンを殺して何になる? 他人をきづかい、尽くすことしか知らない若者を殺すことで…)魔女は頭を振り、思いを払おうとしました。アルシオンの殺害は力に威厳をあたえるどころか反対の結果を招きそうでした。(この子は、それを知っているんだろうか?)魔女は騎士の息子を見直してみました。
「お前が若くて、体がちゃんと動いているうちだけさね。歳をとって、少しでも仕事をなまけるようだったら、お前はあたしが丸焼きにして食ってやる。お前にはせいぜい、それだけの価値しかないんだからね」魔女はアルシオンから顔をそむけ、呟くように言いました。
母親の言うことをだまって聞いていたミーシャは、丸焼きにして食べる、と聞くと、あわてて魔女の耳に何かをささやきました。
「なんだって…。こいつが、お前の命を救ってくれたっていうのかい!」
ミーシャは片足をはだけて見せて、ほとんど消えてしまった傷あとを指さしたのです。
魔女は、アルシオンにつかみかかろうとしましたが、できなくなって爪をかみました。ミーシャがまた母親の耳元で何かをささやきました。
「なんだって!」魔女は叫びました。「この…男を愛しているだなんて!」
小さなミーシャは黙って、アルシオンの両手をつかみ、彼の目をのぞきこみました。
「ミーシャ」アルシオンは言いました。「私は王女様が好きなんだ。だって、私は騎士の息子だからね。でも…」ミーシャは、だまってアルシオンの目を見つめ続けました。アルシオンも彼女の目を見つめていました。
「私は、騎士にはなれないかも知れない」アルシオンは言いました。「前からずっと思っていたんだ…。騎士にはむいていないんじゃないかって。ただ、立派な何かになりたいと、いつもそう思っていた。こうしている今も、私の兄弟は戦っている。戦う以外にも、私にできる方法で、みんなのために何かができるんじゃないかって、今は心からそう思うよ。それが信じられるんだ。私はこの森にきて、魔女とその娘と仲良くなれたからね」
「仲良く、だって!」魔女は叫びました。
「みんながおそれているほど、あなたは悪い人ではないんでしょう?」
「悪い人じゃないって!」
「あなたはミーシャをとても可愛がっている。あなたが色んな物語をきかせているのを、私はいつも聞いていました。あなたが心の底から世の中を嫌っているのなら、どうして勇者や、いい魔法使いや、働き者の話をミーシャにしてあげたんです? あなたがそういったことを話すのは、それを信じたいと思っているからじゃないでしょうか。ミーシャにもそれを信じてほしいと願っているからじゃないでしょうか。
「それに、あなたが誰かを呪うところなんて、私は見たことがありません。いつでも寂しそうに本を読んでいるだけで…」
「黙れ! あたしのことをそんな風に言うなんて許さないよ!」魔女の目が光りました。
「私は、はじめたことはさいごまでやります」アルシオンは言いました。その時、彼の目に宿った光は魔女の弱った心をいぬくほど強いものでした。
本当の戦いというものは、鋭い剣や固い拳が交わる暴力の中にあるのではありません。決めたことを最後までやりとおそうとする心の中にあるのです。
「あなたのことは、私はもう怖くありません。私といっしょに行けば、誰もあなたを恐ろしい魔女だなんて思ったりはしません。この森を出て、この国のために力になって下さい。
「本当は、私はあなたを滅ぼしにきたんです。今では、あなたがみんなの敵だなんて、僕には思えません。ミーシャがあなたのことをたくさん話してくれました。あなたはみんなに嫌われるような人じゃない。そんなことはひとつもしていないからです。あなたはみんなに感謝されて、普通の暮らしができるようになりますよ」
魔女は笑いました。はじめはけたたましく、やがて小さくなり、泣き声が混じるようになりました。
「あたしは邪悪なんかじゃあない…。あたしの荒れ果てた心の中に踏み込んでくる者なんて、この森に入って、おびえないでいられる者なんて、誰もいないと思っていたよ…。たった一人の可愛い、あたしのミーシャ以外にはね。
「アルシオン」魔女は言いました。
「あんたは立派な騎士だよ。あたしの心を救ってくれたのだからねえ。
「遠い昔、あたしはあんたの国のお姫様の病気を治してやれなかったのだよ。すると彼女に恋をしていた大臣が頭にきて、こう言ったのさ。あたしは、病気を治す魔法使いではなく、呪いを広めにきた邪悪な者だと。王はあたしを信じてくださったが…あたしは、ねじくれてしまった。
「あたしは城から離れて、この森へやってきた。初めの頃は、それでもあたしの力をまだ必要とする者がいてね、たくさんの者がここへやってこようとしたが、あたしの所へは、決して踏み込むことはできなかった。あの大臣があたしのことをののしった時に、あたしは自分の心をこんな風に、ねじ曲げてしまったのさ、『人々がお前に望んでいるのは、お前が持っている力だけなのさ』とね…。『誰も本当のあたしを見つけようとはしない。みんなが欲しがっているのはあたしの力だけなんだから。あたしの力を見つけようとする者は、この森へ踏み込んでも、あたしを見つけることはできないだろう。あたしの力を見つけようとするかぎり、決してあたしの姿は見つけられない』とね。
「アルシオン、あんたが他の者と違っていた、いちばん大きな理由は、信じる心を持っているところさ。ただ名誉を手に入れたいだけの騎士だったら、あたしの噂を丸飲みにするだけだったろう。だがあんたは愚かにも、キツネとウサギの話を真剣に受け止めた。オオカミと正面から向き合って、自分が何者かを証明しようとした。
「あんたは一歩も引かないんだねえ。自分の運命から。たいしたものだよ」
魔女が両手をあげると、大きな風があたりに吹き荒れました。風がおさまると、眩しい光があふれました。不吉な影は、もう魔女の森には落ちていませんでした。緑豊かな古森が、太陽の日差しを浴びて輝いていました。
こうして、アルシオンは王宮に伝説の魔法使いを招くことに成功した騎士として、王から褒美を受けました。アルシオンの国に魔法使いがいることを知り、隣国の兵士は、攻め入るのをやめました。彼女が戦場に姿をあらわし、二、三の力を使っただけで、長くつづいた戦争に終わりが来たのです。
「つらくはないですか」国中が戦争の終わったことを祝って喜んでいる時、アルシオンは魔法使いに言いました。
「誰もがあなたの力をおそれています。おそらくは、この国の人々も。長い間、どこにも魔法使いはあらわれなかったから。でも、あなたは…。本当のあなたのことは…」
「本当のあたしは、アルシオン、あんたの心の中にいるのさ」魔法使いは言いました。「絶望というものを知っているかい。信じるものがなにひとつないことさ。今のあたしは、アルシオンという騎士を知っている。自分の運命から逃げ出さなかった立派な騎士のことをね。
「あたしには、それで充分なのさ。たったひとつでも信じられるものがあるのなら」
魔法使いはやがて自分の森に帰っていきました。たった一人の可愛い娘であるミーシャを連れて。
戦わずして魔法に勝った騎士。いつしか、アルシオンは自分の噂が一人歩きしているのを知りました。それはまるで、街角を曲がったとたんに、自分とそっくりの影法師に出くわして、その身なりの良さに驚くような不思議な気持ちでした。
今では王女さえ、アルシオンを尊敬し、彼女から話しかけてくるような身の上でした。兄弟たちは戦場から戻ってきました。彼らは生きて帰れたことを喜び、弟のアルシオンを誇りに思っていました。
ある日、騎士団長の父親がアルシオンをお城の自分の部屋に呼び出しました。
「さて、息子よ」父親は言いました。
「お前は何になったのかな? それはお前が言っていた、立派な者なのだろうか?」
父親の言葉を聞いて、アルシオンは久しぶりに、本当の自分が見つかったような晴れ晴れとした気分になっていることに気が付きました。誰もが、自分を見透かして、何か別のものを見ているような目つきで話しかけていたので、自分自身でさえ、みんなが思っている人物であるかのような錯覚を起こしかけていたのでした。
「残念ながら、まだです」アルシオンは言いました。「私は、旅に出なければならないと思うのです」
「この国はお前を持ち上げすぎた」父親は目を閉じ、静かに息を吐きました。「お前は、まだ本当のお前ではない。お前が何者なのかはわしにもまだ分からない。たいへんな仕事をやってのけた。それは確かなことだ。お前は分かっているだろう?」
アルシオンはうなずきました。「まだ、これで終わりではない、という予感が毎日心の中で高まっています。私は、行かなければなりません」
父親は言いました。「行くがいい。まだお前を知らない国に。お前を知らない人たちが、お前が何者なのかを教えてくれるだろう。そしてお前は、お前自身のことを知るだろう。
「やがて旅人たちが運んでくるたよりの中に、勇者アルシオンの物語が聞こえてくるのもそう遠くはあるまい。誰かがその話を聞かせてくれる日を、息子よ、わしは楽しみにしているぞ」
* * *
アルシオンはある日、自分がなりたいと思う者のことを考えぬきました。
誰もがまだ夢の中にいる明け方、彼は一人で旅立ちました。
朝もやのたちこめる森の中を歩いていると、茂みをかきわける音が聞こえました。アルシオンが振り向くと、旅姿のミーシャがすぐそばに、真っ直ぐに立っていました。
「僕の行く道は、僕自身にも、誰にも分からないんだよ」アルシオンは言いました。
ミーシャが何と答えたのか、それは誰も知りません。
そののち、アルシオンの物語がいろいろな国で語られるようになりました。ある人は、彼のような人物は、誰かが作ったおとぎ話にすぎないと言いました。
どの国のアルシオンの物語にも、ひとつだけ共通点がありました。彼は、必ず動物を連れているのです。その動物はアルシオンの友達であり、どんな過酷な物語の時も、信じることの出来る希望のひとつとして登場します。
アルシオンが何者になったのか。ある日、彼の母親が、夫にたずねました。
父親は旅人の物語に耳を傾けているところでした。あいずちをうちながら、話を紙に書きとめていたのです。彼は笑いながら、こう答えました。
「アルシオンは物語の中の立派な騎士になったのだよ」と。
3
安西さんは夢を見ました。誰もが夢を見るのと同じように。ただ、いつもと違うのは目覚めたまま、夢を見たことです。
不自由な現実とはちがって、夢の中では、人はどこへでも行けます。会いたい人に会うことができ、好きな話をすることができます。
だからといって夢がすべてではありません。いい夢を見るためには、夢の材料になる人生を、きちんと生きなくてはなりません。ひとつひとつ、順番に。最後まで。
夢の中で、ミーシャを連れたアルシオンが道の途中で振り返ると安西さんに言いました。
「僕の行く道は、僕自身にも、誰にも分からないんだよ」
安西さんはうなずきます。それは素晴らしいことだ。道が続いていることだから。私も君とともに行こう。まだ知らない物語を発見するために。
父親は机にむかっていました。娘のことを思いながら、ひとつずつ言葉を紙に綴っているのでした。
目覚めながら、夢をみるすてきな方法を伝えるために。
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